ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

メモ

 Our spiritual goal is to attain "apatheia", a passionless state completely absorbed in the Trinity and no longer controlled by desire. The goal at this level is to enter into union with God through contemplation, and the life that results is one of pure love and active charity.

 ...The greatest challenge we face is not lack of belief but the enormous gravity of our egocentric desires. The weight of these desires creats a force on human nature that is virtually impossible to escape. The only means of rescue is found in turning to God, beginning to imitate Christ and starting to progress from the lowest level of reality to the ultimate reality of perpetual divine communion. (p.22 Chapter on Origen)

 

Origen reminds me that we are never finished in the spiritual life. This life with God is always growing, always deepening, always thickening. How critical this is for the contemporary scene. Today, with few exceptions, we have no serious theology of spiritual growth. Many people are obsessively focused on heaven when they die, and most have simply giving up on any substantial character formation into Christlikeness. .... In short, Origen is inviting us into an ongoing, breathless experience of God's expansive --and ever-expanding-- love.(p.24)

Longing for God

 私のスピリチュアル・ディレクター(我が教会の霊的形成パスター)に、『Longing for God』(リチャード・フォスター&ゲイル・ビービー著)という本を勧めてもらい、早速キンドルで購入して読み始めた。
 アウグスティヌス、アビラのテレサ、ルター、カルヴァン、十字架のヨハネ、イグナチウス・ロヨラなどなど、28人のキリスト教の信仰の先達を取り上げて、霊的形成における7つの道筋を語る本らしい。読みながら、心に留まった文章やフレーズなどを、書き留めておこうかと思う。

 Christian spiritual formation is a God-ordained process that shapes our entire person so that we take on the character and being of Christ himself. When we are open and responsive to this process, our outer life becomes an expression of this inner formation. Spiritual formation is concerned with the hidden dimension of every human life, the space God has given us to become the person we choose to be.

... How can we be shaped in such a way that our life becomes an expression of the spirit of Christ himself? We simply enter into a life with God, a conversational and redemptive relationship in which our own life becomes open to the influence of the Holy Spirit. The Spirit initiates life within us and guides us in a never-ending process of being formed into the likeness of Christ.

Longing for God: Seven Paths of Christian Devotion

Longing for God: Seven Paths of Christian Devotion

徒然メモ

 (1)昨日ご紹介したRend Collective ExperimentのBuild Your Kingdom Hereですが、聴けば聴くほどイイ! 歌詞もメロディも良いし、ビデオも観ていて楽しい! この曲の中で使われている不思議な楽器は、トルコ起源のジングリング・ジョニーというパーカッション楽器なのだそうだ。
 この曲が入っているアルバムは、“Homemade Worship by Handmade People”と言うらしい。ほかの曲はまだ聴いていないけれど、要チェックかな。

 (2)二日前のヘンリ・ナウエンのデボーショナルに、復活は隠された(hidden)出来事だった、というものがあった。蘇ったイエスは、彼を十字架につけた人たちの前にファンファーレとともにドヤ顔で現れて勝利宣言をしたわけではなく、ただ、神の愛は死よりも強く、神の偉大なるご計画は成就されたことを示すために、彼を愛し、彼に従うほんの一握りの者たちの前に静かに現れただけだった… 人類を死と罪のくびきから解き放ち、神の国の到来と神の新創造の始まりとなる、それはそれは意義深いものでありながら、復活という出来事そのものは、世の目には隠されていた… 神のなさることって、そういうものなのだろうな、と妙に納得してしまう。神の国において意義あること、価値ある働きは、往々にしてこの世から見れば地味で、目立たないものなのだろう。ダラス・ウィラードが、特別な施設や企画、才能、技巧(テクニック)も、予算も必要ない、と言っていたことをふと思い出す。

 (3)「どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」(第一サムエル8:5) イスラエルには、王なんかいなくても神様がおられたのに、「ほかのすべての国民のように」、自分たちにも王がほしいと言った。ほかの人たちが持っているものを自分も欲しいという人間の傾向。神が与えてくださるものよりも、「ほかの人たちが持っているもの」が欲しい。クリスチャンでさえもそうかもしれない。「ほかの人たちが持っているもの」に、ちょっと教会色をつけて。実際には、自分が欲しがっている「ほかの人たちが持っているもの」は、自分を支配することになるだけかもしれないのに。(8:11−18)

 (4)「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(第二サムエル7:12、13)王制は、本来、神がイスラエルにお与えになるつもりのものではなかった。それにもかかわらず、むしろそれは、イスラエルが神を拒絶したしるしでさえあるにもかかわらず(第一サムエル8章)、ここで神は驚くべき約束をくださる。その王の家系から、とこしえまでも続く王国の王が出る、とおっしゃるのだ。先日の講演会で、NTライトが、第一サムエル8章と第二サムエル7章の間にあるこの「テンション」について、何度か言及していたことが心に残っている。このテンションは、実に、神のなさることのミステリーだ。私たちにfigure out することはできない。ただ、畏怖と畏敬をもって仰ぎ見、感謝して受け取るだけ。

Build Your Kingdom Here

 今日の礼拝のオープニングの曲。すっかり気に入ってしまいました。

(後ろで火を吹いている人がいるのが、また面白い…w)

Come set Your rule and reign
In our hearts again
Increase in us we pray
Unveil why we're made
Come set our hearts ablaze with hope
Like wildfire in our very souls
Holy Spirit come invade us now
We are Your Church
We need Your power
In us


We seek Your kingdom first
We hunger and we thirst
Refuse to waste our lives
For You're our joy and prize
To see the captive hearts released
The hurt, the sick, the poor at peace
We lay down our lives for heaven's cause
We are Your church
We pray revive
This earth


Build Your kingdom here
Let the darkness fear
Show Your mighty hand
Heal our streets and land
Set Your church on fire
Win this nation back
Change the atmosphere
Build Your kingdom here
We pray


Unleash Your kingdoms power
Reaching the near and far
No force of hell can stop
Your beauty changing hearts
You made us for much more than this
Awake the kingdom seed in us
Fill us with the strength and love of Christ
We are Your church
We are the hope
On earth


Rend Collective Experiment
Copyright © 2011 Thankyou Music

Rend Collective Experimentという北アイルランド発のクリスチャンバンド、もう少しチェックしてみよう。あと、最近気になっているのがMumford and Sonsという、これまた英国のクリスチャンバンド。こちらはうちの霊的形成パスターのお勧め。

Les Miserables

 昨日は、ぼぼるパパとのデートナイトと称して、シカゴの劇場にミュージカル「レ・ミゼラブル」を観に行ってきました。事前にストーリーを予習していったので、楽しむことができました。

 まず夕方5時半ごろに、ぼぼるパパを大学まで車で迎えに行き、そこで運転を交代してシカゴのダウンタウンへ。夜間レートの値段が少し安い駐車場に停めて、まずは毎年シカゴで開催されているドイツのクリスマスマーケット、「クリスキンドルマーケット」へ。昨日がオープニングの日だったので、TVカメラのクルーも来ていました。そこで、ドイツのソーセージやザワークラウトのサンドイッチや甘いものを食べて、近くのスターバックスに寄ってコーヒーを飲んで、それから劇場へ。
 とても楽しみました! ぼぼるパパも楽しんでくれて、「これからは、最低年に二回はこういうことをしよう!」と数値目標まで立てていました。(笑)
 舞台が終わると、役者さんたちはそのままの姿でホールに出てきて、年末の募金の呼びかけ。感動しました。先日のハリケーン・サンディーの被害者のためにも、こうやって多額の寄付を集めることができたそうです。

神父さん
アンジョルラス
コゼットの子役さん

 定番の感想かもしれませんが、やはり、自分が盗みを働いた相手である神父に憐れみを差し出されたことによって、誠実で正直な人間になろうと決意して新たな人生を生きたジャン・バルジャンと、逮捕すべく自分がずっと狙っていたジャン・バルジャンに憐れみを差し出され、命拾いしたことによって、正義を追求するというこれまでの自分の生き方の意味が分からなくなり、自らの命を断つことを選んだジャベール警部の対比が、印象的でした。また、最後の方のセリフにあった、「To love another person is to see the face of God」というフレーズも、印象に残りました。
 また、革命の時代の若いエネルギーというのは、すごいですね。自国を、社会を、変えようとして、自分の命を犠牲にしていく若者たちの姿に、your life is a part of something biggerということを、もう一度思わされました。
 それにしても、舞台というのはなんと言う総合芸術であることか。惚れ惚れしました。

 アメリカでは12月25日に映画も公開されます。これも楽しみ。(私は日本から戻ってきてからになるけど。…と思ったら、日本では12月21日公開なんだ。どうしよう、日本で観ちゃおうかな。アメリカでも観られるものなのだし、戻ってきてからにしおようか、どうしようか…)

Your life is a part of something bigger

 ツイートしましたが、こちらにもメモしておきます。
 今日のファミリーディボーション("The Story"のDVDを使った学び)で、パパが子どもたちに言ったこと。

 Your life is a part of something bigger.

 このパースペクティブを持つことは、本当に大切だと思う。自分だけを見るなら、辛いことや苦しいこと、わけわかんないと思うことにぶつかると、嫌になってしまう。不公平だ、納得いかないと思ってしまう。でも、自分は何かもっと大きなものーー神様が造られた世界、神様がその世界のために持っておられるご計画ーーの一部なのだと知っていれば、すぐにメイクセンスできなくても、死ぬまでメイクセンスできなくても、まだ見ぬものを信じる信仰を持って、今置かれている自分の状況をも、平安のうちに受け止められるだろう。そしてその中で、神様の恵みと、愛と、善と、義に信頼して、主に導かれていくことを選べると思う。

 先週の金曜日は、スピリチュアル・ディレクションのセッションの日だったのだけれど、そのときにも、ちょっとそんな話題が出た。白なのか、黒なのか。白でもない、黒でもない。そういう宙ぶらりんのような、グレーゾーンにいることについて、どう折り合いをつけるのか。どう受け止めるのか。パスターはそれをthe third way of livingと呼んだ。
 それは、必ずしもグレーゾーンに留まり続けることでもない。神様が着実に「完成」に向けて自分を、そしてこの世界を、導いてくださっていることを信じる。ただ、そのペースも、方向も、方法も、神様に委ねるということ。受動的にではなく、積極的に委ねることを自ら選ぶこと。
 この、白黒はっきりつけないというのは、ポストモダン相対主義とは違う。むしろ、神という絶対的な存在、自分をはるかに超えた絶対的な軸があるからこそ、自分には分からないことがあっても構わない、自分が「神」でなくても構わない、それを受け止めて、なおかつ平安でいられる… そういうことかなと、今日になってから思った。

 ちなみに、今日の学びは、ルツ記から。「神が私を見放した」というナオミの深い絶望。でも、ナオミには想像もつかなかった形で、神様は贖ってくださった。ボアズがルツに親切だった背景には、ボアズの母ラハブが異邦人だったこともあるだろう。ボアズは、母が異邦人ゆえに肩身の狭い思いをするところを見ながら育ったのかもしれない。だから外国人で苦労しているルツに特別の愛情を感じたのかもしれない。そしてボアズとルツの間にはオベデが生まれ、オベデにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた…
 Your life is a part of something bigger.
 自分の人生だけを見るなら、メイクセンスしないこともあるかもしれないけれど、私たちは、私たちを超えたもっと大きなご計画の一部なのだ…

N.T. Wright & Scot McKnight

 火曜日のシカゴ大学での講演に続き、夕べは、ヒルトンシカゴでもたれた、何というのでしょうねあれは、まぁ、講演会のようなものに行ってきました。ちょうど今週末、シカゴで大きな聖書学会(Society of Biblical Literature)がもたれていて、それでN.T. Wrightもシカゴに滞在しているようです。その学会のイベントの一つなのかどうかわかりませんが、シカゴ在住の新約聖書学者スコット・マクナイトが自分の論文を発表し、それにN.T.ライトが応答する、という形式の発表会(?)があったのです。
 マクナイトの論文のトピックは、「教会と神の国」。一応一般向けイベントということでしたが、やはり内容は学術的で、一般信徒に教えるためのメッセージではなく、学者さん同士が意見をやり取りするような趣向のものでした。そういうわけで、私にはやや難しく、充分についていくことはできなかったのですが、覚えていることだけでも、メモしておきます。(以下は、How God Became King読書会でシェアしたものの転載です。)

====

 マクナイトは、イエスが神の国と呼んでいたものと、パウロが教会(エクレシア)と呼んでいたものは、実は同じものを指すのではないか、という説を出しました。近年、「神の国」ばかりもてはやされ(?)、「教会」は、単なる制度であり命のないものであるかのように、すっかり隅に追いやられてしまったけれど、キリストを王とする人々の共同体を通してキリストの贖いの働きがなされる場、すなわち教会こそが、神の国ではないのか、と。そして、キリストを王としない人たちがいくらコモングッドのために働いても、それはKingdom workにはならない、Kingdom workは教会(エクレシア)だけができることだ、と。
 それに対してライトさんは、近年教会離れが進み、忘れられかけているから、もう一度elevateしようというマクナイトの趣旨はよくわかるが、教会と神の国は同列にはできない、と返答しておられました。(「神の国」とは神の統治を指す(denoteする)ことばであり、「教会」とは、人々を指すことばだから、そもそも次元が違う、と。)そして、教会だけがkingdom workをできる、という考えにも、真っ向から反対しておられました。
 マクナイトは、マザーテレサの働きはKingdom workだけれど、ガンジーの働きは違うと言い、ライトは、ツツ大司教とネルソン・マンデーラが南アフリカで共にアパルトヘイトという悪と戦ったことを引き合いに出しつつ、それに反対していました。
 また、王をたてるということについて聖書が述べていること、つまり1サムエル8章と2サムエル7章の間にあるテンションについてもライトさんは何度も語っていました。でも、残念ながら私には充分咀嚼しきれませんでした…
 それから、断片的で申し訳ないですが、ライトさんのことばの中で、もう一つ印象に残ったものを。
 「アブラハムにしてもモーセにしてもダビデにしても、問題の解決として神が立てた人物でありながら、同時に問題の一部にもなってしまうことを、神は最初から十分承知の上で、なおも彼らを立て、用いられたのだ」

 何と言いますか、ライトさんのことばには、この世に対する深い愛と慈しみを感じます。まさに、神様がご覧になっているような目で、ライトさんもこの世をご覧になっているのじゃないかな、と感じさせられるのですね… もう、個人的にも大ファンになってしまいました。

 右がマクナイト教授です。想像していたよりも精悍な感じで、お二人ともとっても素敵でした。

 ちなみに、なぜこんな写真しかないかと言うと、ぼぼるパパが良いカメラを持っていくと言っていたので私はiPadしか持っていかなかったのに、パパときたら、車の中にカメラを置いてきてしまったのでした! がっくし。



ツーショット、ではなくて、勝手に同じフレームにおさまって撮った写真。(笑)本にサインをしてもらったので、すっかり満足している私です。っていうか、恥ずかしいくらいのドヤ顔ですが… もうちょっと謙遜な顔はできないのか!<自分

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)