ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

2012 Reflection(2) ~Tension~

 (昨日の続き)
 The King Jesus Gospelの邦訳原稿、夕べ、無事に送信しました!

 さて、昨日は、スピリチュアル・ディレクションと、「私たちは、他者への祝福となるために召されている」と教えられたことについて書いた。
 これと並行して、今年、私にとって大きかったもう一つのことは、Facebookで行っているNTライトのHow God Become Kingの読書会だった。数年前に初めてNTライトの"Surprised by Hope"を読み、何かとても大切なことが書かれている、私にも必要なことが書かれていると感じたものの、とても充分には咀嚼しきれず、悶々としていた。そこに、数年前から神様がいろいろな出会いを与えて準備をしてくださっていたのだが、その機が熟したかのように、巣鴨の小嶋タカ先生、神戸の川向さん(a.k.aミーちゃんハーちゃん)と一緒に、NTライトの読書会をやりましょう、という話しが持ち上がった。告知したら、NTライトに詳しい高橋秀典先生、芦屋の鎌野直人先生、そして英国でライト師のもとで博士課程におられる山口さんをはじめ、多くの方々が応答してくださり、4月からスタートした。一人で読むには難しくて歯が立たなかったものの、これらの方々と一緒に読むことで、分からないこともたくさん教えていただいたし、皆さんの洞察からも多くを学ばせていただいた。もちろん今なお、学ばせていただいている最中である。
 さらに、私が何かにつけてお世話になっている上沼先生も、実はライトに関心を寄せておられることを知り、上沼先生も読書会にお誘いした。そして、この読書会とも関連して、小嶋先生、高橋先生、上沼先生、小渕さんが、11月にお茶の水でNTライトセミナーを開催される運びになった。(そのときの様子は、リバイバルジャパンの記事にもなった。)
 この一年間は、NTライトの本や、また現在翻訳中のスコット・マクナイトのKing Jesus Gospel(NTライトとダラス・ウィラードが前書きを寄せている)から、実に多くの示唆を得た。昨年の9月ごろ、ライトやマクナイトの本を読んで、何だか自分がこれまでたて上げてきた信仰が土台から揺るがされているようでショックだ、というようなことを書いたが、今ではもう、それについて不安を感じていない。むしろ、ワクワクしている。なんというのか、クリスチャンになって私は35年になるけれど、ここにきてようやく、「福音」が聖書全体からメイクセンスし始めてきたというか… このあたりのことは、また年が明けてから、追々書いていきたいと思うのだけれど…

 そして、これらの学びや導きの中から、今、新たに浮上してきたテーマがある。それは、「テンション」。神様のミステリー(奥義)と言ってもいいかもしれない。(11月のブログ記事で、ちょっとそれに言及した。)聖書の中には、白黒つけにくいコンセプトや物事の流れ、また矛盾しているかのように思えることもいろいろ出てくる。「福音」が聖書全体からメイクセンスし始めてきたと書いたばかりだけれど、それでも、聖書を読めば読むほど、逆に分からなくなることもある。先週のコネティカットでの悲痛な事件に直面したり、それ以外にもこの地上で現在進行形で起こっているさまざまな悲惨な出来事に思いを馳せると、ただただ困惑し、葛藤を覚えることも多々ある。

 先週の土曜日のブログ記事で、コネティカットでの事件を受けて、ある英語ブログからの引用を紹介した。ここに、ざっと日本語訳を載せます。
 

そして、私たちは待つ。来てください、インマニュエル。
しかし、あきらめたように受け身になって待つのでなく、絶望の中で待つのでもない。祈りつつ、期待と希望を持って待つ。「御国が来ますように。あなたのみこころがなりますように」。私たちには、その御国の代理人・代行者となることが求められている。
アドベントの季節、私たちは自分の中や周囲にある痛みや不完全さを無視することはしないし、私たちを変えることのできるキリストの力や、新しい方法で物事を行うことの美しさやそこから生まれてくる善きものを無視することもしない。私たちは希望のうちに待つ。イエスの御国はいつの日かこの世を本来の姿に回復させてくれるのだと知っているがゆえに、希望のうちに待つ。そして心の底から愛する。正義を推進する。飢えている人たちに食べ物を与え、裸の人たちに衣服を着せる。深く愛し、犠牲的に与える。そして、詩篇の作者が言ったように、平和を求め、それを追い求める(詩篇34:14)。
私たちはこれらのことを、最初のアドベントを通して与えられた力と、次のアドベント(イエスの再臨)を待ち望む希望のうちに行うのだ。 来てください、インマニュエル。

 この、「待つ」ことの中にあるテンション。イエスは「完了した」と言われたのに、まだ究極の完成には至っていない世界に生きるテンション。最初のアドベントと、次のアドベントの間にいる私たちには、brokennessとwholenessのどちらもが現実だというテンション。NTライトも言っていたように、この世の問題への解決として召された私たち自身が、この世の問題の一部になってしまうというテンション。白でもなく、黒でもなく、かと言ってグレーのうちに留まるわけでもないというテンション。
 このテンションの中で、神の民として、キリストの弟子として、いかに生きるか。それが、今、私の中で浮上してきているテーマ。来年に向けて、神様から与えられたチャレンジ。そして、来年の御言葉として与えられた箇所は、第一テモテ6章18節。「まことのいのちを得るために」。この箇所、私は英語の表現のほうがピンとくる。

..., so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.

TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.

 take holdというのは、ただ「得る」ことではなく、自らつかむこと。目の前に差し出されたものをただ受け取るのでなく、手をのばしてしっかりつかむこと。自分の中に根付かせること。 そしてthe life that is truly life.つまり、life(いのち)と一口に言っても、まことのいのち(実に本物のいのち)と、そうでないいのちがあるということ。神様が私たちに与えてくださるいのちは、ただ身体が生きているというだけではなく、魂が、霊が、主にあって生きているということ。良く生きる(live well)ことを知っているいのち。そのいのちをつかむこと。このいのちは、きっと、上述のようなテンションの中でいかに生きるかを知っているいのちではないだろうか、と思うのだ。それを、神様に教えていただきたい。そこに導かれたい。そして、それをtake holdしたい。自分だけのためではなく、他者の祝福となるために。それが、来年に向けて、私に与えられた思い。

 長くなりました。最後まで読んでくださってありがとうございます。今年のブログエントリーは、これが最後かもしれません。今年はあまりブログを書けませんでしたが、読みに来てくださってどうもありがとうございます。来年はもう少しアウトプットを増やしたいなと思っています。

 皆様、どうか祝されたクリスマスを、そして喜びに満ちた新年をお迎えになられますように。
 来年もよろしくお願いいたします。

2012 Reflection(1)〜他者の祝福となるために〜

 日本行きをあさってに控え、やることが山積み。今日中に、King Jesus Gospelの原稿を最後までチェックして、編集者さんに送付したい。そして、明日はパッキング。まだまったく手をつけていない。買い物にも行かないと。あさって、出発の日は家を出るのが午後なので、午前中は、狂ったように(?)家の中を掃除することになりそう。
 今回の日本行きはいろいろ複雑で、先週の木曜日にエミが大学から戻り、昨日、一足先に、一人で日本に旅立った。今は、鎌倉の私の妹のところにいる。あさっては、私とま〜やとケンが出発。ま〜やはあさってが期末試験の最終日で、それが終わったらすぐに出かける、という感じ。一方みんは、明日まで期末試験があるために、こちらに戻って来れるのがあさって。でも、彼女の冬休みは1月末までなので、みんとぼぼるパパは24日にシカゴを出発して日本に行く。
 帰宅は、エミ、パパ、ま〜や、ケンが1月6日。ま〜やとケンは1月8日から新学期が始まる。エミは、戻ってきてから期末試験で、シカゴに到着したら、家には戻らず、飛行機を乗り継いでNJまで行く。遅めに日本に到着したみんは、1月9日まで日本。私もみんと一緒に9日まで日本に残る。
 そんなこんなで、ひどくバタバタしている。例年、世の中が慌ただしくしている12月、私はわりとリラックスしてのんびり過ごすようにしていたのだけれど、今年は日本行きと2冊の本の詰めが重なって、めずらしく大忙しになってしまった。

 例年ならもっと暮れも押し迫ってから、1年を振り返ってみるのだけれど、今年は、日本ではたぶんまともにネットにアクセスできないと思うので、簡単に今、振り返ってみたい。

 この一年間は、私の中で、何か、潮流が変わった年となった。去年、一昨年と、約2年間、いろいろ難しいことがあり、何かこう、井戸の底に沈んで穴を掘っているような、井戸の底で、自分の問題にまみれながら、神様とずっと対話しているような、そんな感じだったかと思う。しかし、実際に私の生活の中で起こっていることには辛いこともあったけれど、井戸の底で神様と過ごした時間は格別だった。そこにいたからこそ見えたこと、聞こえたこと、味わえたこと、たくさんあったと思う。この状態は、今年の秋ごろまで続いていたかもしれない。弱さや痛み、苦しみを受け入れ、包み込むこと、その中で主に出会い、また人に出会い、癒しを受け取り、また与えることをわずかながらも学んだように思う。
 その中で、今年、私の中で潮流が変わったと思えるようになったいちばんの要因は、昨年12月にスピリチュアル・ディレクションを受け始めたことだろう。ディレクターに毎月定期的に会うことで、立ち止まって振り返り、今神様は私の人生の中でどう働いておられるのか、ということに意識的に目を向けるようになったのは、非常に大きかった。このセッションを始めたとき、これは「点つなぎ」のようなものだと言われたのだけれど、セッションを重ねるうちに、ディレクターと話さなくても、自分で点をつなげられるようにもなってきた。少なくとも、かなり意識できるようになった。ディレクターと話すことだけでなく、礼拝のメッセージで、自分が翻訳している本の中で、あるいは自分が読んでいる本や、インターネット上で見かける記事や他の人の発言、家族や友人との関わり、世の中で起こっていること、ありとあらゆることを通して、神様が私に語りかけ、導いておられるのを、今まで以上にはっきりと意識できるようになった。
 その中でも、特に大きなテーマとして受け取ったのは、「私たちは、他者の祝福となるために召されている」ということ。
 「君は愛されるために生まれた」という歌があるけれど、もっと言うなら、「君は他者の祝福となるために生まれた」ということではないだろうか。もちろんそこには、「私たちは神のThe Beloved(愛されている者)である」、という前提があるのだけれど。愛されているところで終わるのでなく、その先があるのだ。
 昨日の礼拝メッセージの中で、パスターが「神の民は、自分のために選ばれるのではない。神の民は、神が愛するこの世界のために選ばれるのだ。神の民は、自分のためだけに祝福されるのではない。神の民は、彼らを通してこの世が祝福されるために、祝福されるのだ」と語っていたが、このことは、この一年間を通して、何度も示されたことだった。For the sake of others. In order to become a blessing to others. そもそも、アブラハムが召されたのも、この世を祝福するためだった(創世記18:18)。彼は、祝福となるために選ばれ、召された。その同じ役割が、イスラエルに継がれ、そして今、神の民とされた私たちにも継がれている。
 同じく昨日のメッセージで、「知恵とは、実生活の中で、何が最善で、最も建設的で、最も神に栄誉を帰し、いのちを豊かにする行動であるかを見極められることである」とも語られた。この知恵は、自分のために与えられるのでなく、他者の祝福となるために与えられるのだ。
 以前にも書いたが、キリストに似た者と変えられていく霊的形成の目的も、他者の祝福となるためだ。私たちに与えられているものはすべて、他者の祝福となるために用いるようにと与えられている、ということ。
 他者のために。他者の祝福となるために…
 
 (続きは明日)

二人がひとつとなるために

 夫婦の境界線の本、 Boundaries in Marriageの邦訳、ついに発売日が決定しました!
 以下、出版社さんのブログからです。

 予約受付も開始されたそうです。詳しくはあめんどうさんのホームページよりどうぞ。

クラウド&タウンゼント博士の
  二人がひとつとなるために
    ──夫婦をつなぐ境界線──
  Boundaries in Marriage
  ─Understanding the choices that make or break
   loving relationships

 訳者 中村佐知
 四六版 並製(全440頁)
 定価2,100円+税

 発売予定 2013年1月10日

◎本書は、あなたの配偶者を変えたり、正したり、何かをさせようとするためのものではありません。夫婦関係に境界線を導入し、双方が共に成長できる機会を提供するためです。

◎境界線における衝突を解決しようとするとき、その目的は相手を傷つけるためではなく、夫婦がより親密になるためであり、二人の愛を守るためです。境界線を設定することで、夫婦間の愛は高まり、また、傷は修復されていくのです。

 

悲しい&祈り

 昨日のお昼ごろ、ツイッター経由でコネチカットの小学校で銃の乱射事件が起きたことを知った。キンダーガーテン(日本の幼稚園年長にあたる)から4年生までが通う学校。日本でも報道されていると思うので、皆さんもご存じだろうが、5歳から10歳までの20人の子どもと、6人の学校のスタッフ(校長先生を含む)、そして、犯人の27人が亡くなった。(後の報道によると、亡くなった子どもたちは皆6歳と7歳だったそうだ…)

 この国は、銃の乱射事件が多すぎるよ!!!!! 

 つい数日前にも、オレゴン州のショッピングモールで乱射事件があったばかりだよ。数ヶ月前には、コロラド州の映画館で、バットマンの最新映画の上映初日の夜中、乱射事件があった。
 数年前にはヴァージニア工科大学で学生による乱射で30人が亡くなった。コロラド州のコロンバイン高校での事件も、誰も忘れてはいない。

 これだけ多いと、ニュースを聞いても、「またか、嫌だなぁ、恐いなぁ」と思うくらいになってしまうのだけれど、さすがに昨日の事件は違った。小学校ですよ。キンダーガーテンと1年生の教室がターゲットにされたって…
 小さな子どもたちが、どれだけ恐ろしい思いをしたかと思うと、胸が張り裂けそうだ。子どもたちが泣きながら一列になって、先生に誘導されて避難する写真があったけれど、それを見るたびに涙が溢れ出す。親ならみんなそうだろうけど、自分の子どもとだぶる… 自分の子どもの小学校の教室が頭に浮かび、もしそこにガンマンが入ってきたら… そんなこと、考えたくもないけれど、それが昨日、このコネチカット州のサンディーフック小学校では現実に起こってしまった。
 20歳の青年の犯人は、キンダーガーテンの教師である自分の母親を自宅で殺害し、それから小学校に来て銃を撃ったらしい。
 アメリカの学校は、警備がものすごく厳しい。この学校も例外ではなかったらしい。うちの子どもたちの学校も、基本的にドアはいつもすべて施錠されており、外部の人は正面玄関から入り、数人の秘書が常時待機しているオフィスで、名前を書いて、名札をもらってからでないと、学校の中には入れないようになっている。普段からそれくらい厳しい。
 また、ロックダウンと言って、非常事態が発生したときに、学校のドアすべてを施錠し、人が入れないようにしたり、あるいは外に出られないようにするためのプロトコルもある。うちの子どもたちの学校にもある。たとえば、銃を持った悪者が逃走中のときなど、学校はロックダウンされる。
 災害時の避難訓練のように、ロックダウン時の訓練をする学校もあるらしい。サンディーフック小学校も、この突然の非常事態に、先生方は本当に素晴らしく対応なさったと思う。教室のドアの鍵を締めたり、トイレやクローゼットに子どもたちを誘導して隠れさせたり、一列にならんで手をつながせ、目を閉じて校舎の外に避難したり… 先生方だって、何が起こっているのか、はっきり分からないままでの指導だったろうと思う。先生方には、心からの敬意を表する。
 それでも、ガンマンに入って来られてしまった教室の先生方にはなすすべもなく、どれほど無念だったろうか…
 学校から緊急連絡のメールが入ったとき、親御さんたちはどんな気持ちになったことだろう。学校に駆けつけ、我が子の無事を確認できた親御さんはよかったけれど、そうでなかった親御さんたちは… 20人の亡くなった子どもたちの親御さんたちは…
 サンディーフック小学校の子どもたちの心に、トラウマが残りませんように、悪夢にうなされることがありませんように… 祈らずにはおれない。ああ、神様、この子どもたちをお守りください。そして、愛する子どもたちを失ったご家族、大切なコミュニティーの仲間たちを失ったこの町の人々に、あなたの愛と慰めが格別に注がれますように。

 こういう事件を起こす人は、精神状態がふつうではなかったのだろうけれど(いったい誰が、5歳の子どもたちに向かって銃を乱射できる!?)、だからと言って、いろいろ事情のある人による、不幸で残念な事件でした、では済ませられない。やっぱり、この国の一つの問題として、銃の規制がほとんどなされていないことがあると思う。政治的な話しがしたいわけではないけれど、これは事実だもの。アウトドア用品やスポーツ用品店に行けば、狩猟用の銃がふつうに並んでいる。スポーツとしての射的場とかもふつうにある。護身用として、自宅に銃を置いている一般の人も多いらしい。日本人の感覚ではピンとこないけれど。
 親の寝室にあった銃を子どもが見つけて、遊んでいるうちに誤って発砲して亡くなった(あるいは兄弟を殺してしまった)という痛ましい事件もある。夫婦喧嘩や、友人同士の喧嘩、あるいは路上で通りすがりの人と言い合いになり(road rageと呼ばれる)、カッとなって銃を取り出すというケースも全然少なくない。乱射事件は少ない(と言っても、先にも書いたように、決して珍しいわけではない)かもしれないけれど、こういったケースは、はっきり言って、しょっちゅうあるだろう。
 アメリカ人には、開拓時代からの文化・歴史的背景で、自分のことは自分で守るという意識があって、銃の規制を嫌がる人たちが多い。福音派のクリスチャンたちでさえそうだ。こういう人たちは、飲酒運転で事故を起こす人がいるからといって、車を廃止にはしないだろう!と言った理屈を言う。車と銃は、全然違うのに。
 護身のために、と言っても、現実には、皆が皆、普段から銃を身につけて持ち歩いているわけではない。自宅に銃を持っている人だって、モールや映画館で銃の乱射事件に巻き込まれるかもしれない。いくら自宅に持っていたって、本気で護身のためと思うなら、警官のようにみんないつでも銃を持ち歩いていないと意味がないし、学校の先生は教室に銃を常備し、いつガンマンが入ってきても応戦できるようにしていないと、意味がない。しかし、当然、実際にはそんな社会は恐ろしいだけだ。銃の規制に反対する人たちは、そんな社会がほしいのだろうか? いくら護身のために誰でも銃を購入できるようになっているべきと言っても、現実には、人を殺そうと思っている人だけが銃を持って人のいるところに出ていくのではないか? 

 銃が規制されたからといって、こういう事件がなくなるわけではないのは分かっている。法律では人の心は制御できないし、病んでいる心や人間関係を癒すこともできない。それでも、法律によって少しでも制御できる部分があるならば、それも一つの策ではないのか。
 約十年前の、日本の池田小学校事件。あのときの犯人は刃物を持って小学校に侵入し、8人の命を奪った。もし日本でも銃が簡単に手に入るようになっていたなら、あの犯人は刃物ではなく銃を持っていたかもしれない。銃を持っていたなら、被害者は8人では済まなかったかもしれない。

 銃の規制は、アメリカが抱える大きな問題に対し、ほんの小さな対応策しか提供できないとは思うけれど、それでも具体的にできることの一つだ。
 一方で、人の心の闇、社会の闇に対して、光と癒しと解放と贖いをもたらすことができるのは、福音だけなのも事実だろう。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。(イザヤ61:1−3)

 これを成就するために、油注がれた方であるメシアなるイエスがこの世に来てくださった。イエスは、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と言われたのだ。(ルカ4:18、19、21)
 イエスはすでに来てくださった。だから私たちはクリスマスを祝う。
 でも、イエスが「実現しました」とおっしゃられたことと、私たちが実際に見ている現実とのギャップを思うとき、何が欠けているのか?と問わずにはおれない。昨日シェアした、上沼先生の言葉をもう一度思う。

「神は、御子のうちにおられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導かれる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 神の民であることを示していく。
 
 イエスさま、あなたは、あなたがこの世に来られたのは、「捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるため」だとおっしゃいました。油そそがれた方(メシア)であるあなたがこの世に来てくださったことにより、それが実現したとあなたはおっしゃられました。主よ、それなのに、この世にはまだまだ多くの苦難があります。最終的な御国の完成は、あなたが戻ってこられるときなのはわかりますが、それまでに、私たちはどうすればいいのでしょうか。あなたの民を導いてください。あなたの民を教えてください。今、教会(The Church)が、あなたの民として委ねられている働きを行うことができますように、どうか助けてください。
 政治的な働きに関することの前には、私はどうしても無力感を覚えてしまう弱い者ですが、それでも、私たち一人ひとりが、自分の生活の中でできることがあるはずだと思います。もっと愛する者に私を変えてください。
 家庭で。友人たちの間で。自分が属すコミュニティーの中で。
 自分が置かれている場で、あなたが教えてくださっている生き方を、愛し方を、実践できる者にしてください。
 聖霊様、助けてください。力をお与えください。あなたの民に。あなたのしもべたちに。
 主なるイエスさま、あなたがこの世に人となって来てくださり、私たちを招いてくださったのは、私たちの罪が赦され、死んだあとに天国に行けるようになるためだけではありませんでした。あなたは、今ここで、この地上において、あなたの御国に私たちを招きいれ、そこであなたの民として生きるよう招いてくださったのです。あなたのご聖誕を、クリスマスを、祝うにあたり、そのことをもう一度思い出させてください。あなたが私たちの間に来てくださったように、私たちも、この地において、あなたの民として生きるのだという決意を、もう一度新たにさせてください。そうやって、真に「福音」をこの世に伝えていけるために。


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追記:ウィロークリーク教会の牧師、ビル・ハイベルズの奥さんであり、社会活動家でもあるリン・ハイベルズが紹介していた、彼女の友人Todd Deatherageのブログ記事を読んだ。とても共感したので、ここからもリンクします。

And so we wait. O Come, O Come, Emmanuel. But we wait not in passive resignation or despair. Expectant and hopeful waiting requires that we pray. “Thy kingdom come, thy will be done.” And it requires us to be agents of that kingdom. In Advent we neither ignore the brokenness in us and around us, nor do we ignore the transformative power of Christ and the flowering and the beauty of a new way of doing business. We wait in hope, knowing that the Jesus Kingdom will one day bring about a restoration to the way the world was meant to be. We love deeply. We advocate justice. We feed the hungry and clothe the naked. We love deeply and give sacrificially. And, as the Psalmist admonishes us to do, we seek peace, and pursue it (Psalm 34:14). We do all of these things in the power of the First Advent and in the hope of the Second. O Come, O Come, Emmanuel.

上沼先生「受肉と、幕屋と、」

 上沼先生の神学モノローグが配信されてきた。
 今年は、シカゴは暖冬のせいか、また年末に一時帰国を控えているせいか、12月に入ってもどうもアドベントという気がせず、充分に心をしずめてクリスマスの瞑想にひたることができずにいた。しかし今朝、上沼先生のこの記事を拝読しながら、この一年間の導きを振り返りながら、御子が肉を取って来てくださったこと、イスラエルの神がご自身のお約束のとおりに、メシアをこの地上に送ってくださったこと、そして今日の私に与えられているミッションに、思いをはせた。

御子の受肉は、幕屋の再現である。それで、神は、御子のうちにおられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導かれる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 神の民であることを示していく。

 このことばをうなずきつつ受け止め、噛み締めつつ…

 全文はこちら(上沼先生、いつもありがとうございます。)

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神学モノローグ

「受肉と、幕屋と、」2012年12月13日(木)

 ヨハネが キリストの誕生を語るときに、 他の福音書記者とは異なって一つの世界観をもって語っている。初めに神とともにあったことばが、「人となって(肉をとって)、私たちの間に住まされた」(1:14)という。「ことば」と言うことで、当時のギリシャ哲学の影響を伺わせるような表現である。それでも、神の世界に関わることが「肉をとる」というのは、二元的なギリシャ哲学とは相反するものである。

 さらに「私たちの間に住まわれた」とヨハネが言うときに、明らかにユダヤ教の世界を視点に入れている。「住まわれた」というのが出エジプトの際の幕屋に関わることなのである。チェーン式聖書でもこの箇所に説明を加えている。「『住まわれた』 幕屋を張られた。かつて幕屋のうちに認められた神の栄光が(出エジプト40:34,35)、今やイエスの体のうちに認められるようになった。」

 このことは一般によく言われていることであるが、受肉の背後に幕屋の思想があることが分かる。その繋がりをしっかりと見ていたのがヨハネの世界観であった。「ことば」でキリストを語ろうとしていることで、ギリシャ的な思想を伺わせるのであるが、むしろそれに相反するように、ユダヤ的な伝統のなかでメシアの到来を展開していることが分かる。

 出エジプト記の後半で、十戒と様々な戒めを語ったあとに、神は幕屋のことを事細かに語っている。正直どうしてこんなに細かに語る必要があるのかと思わされる。レビ記では、その幕屋の祭司の務めを同じように事細かに語っている。それだけ大切なのだと分かる。しかし、それらは祭儀律法として、新約ではその象徴的な意味だけが捉えられて、実質的な意味は終わったと教えられてきた。その結果、事細かに記述されている旧約聖書のこの部分をとばして読むことになる。そのようにして、聖書がすべて神のことばであるという立場を、実質的に無にすることになる。

 幕屋と祭司についての細かい戒めは、出エジプトの民が荒野の40年旅をして約束の地に至るために、欠かすことのできなかったことである。幕屋は、神が民のなかに住まい、神が民と出合い、神が民を導く場所であった。民は、幕屋を中心にして生活をし、移動し、他の民族に対して自分たちが神の民であることを示してきた。

 約束の地に入って、王国が立てられたときに、幕屋は、今度は神殿として築きあげられた。王国と神殿をどのように捉えたらよいのか迷うところである。その神殿が神の民の罪のためにバビロンによって滅ぼされ、神の民はバビロンに連れて行かれる。バビロン捕囚である。そこからの帰還と神殿再建がバビロンでの民の叫びとなった。何とか神殿は再建されるのであるが、幕屋で約束された神の臨在を求める叫びは、メシアの到来を願う信仰として何百年と続くのである。

 その待望のなかで、ヨハネはキリストの誕生を見ている。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」あの天幕で約束されたことが成就したのである。しかしそこには、神にそむいた民への神の深い悲しみがある。幕屋のことを語っている間に金の子牛を作って拝んだ神の民への神の怒りがあり、民の罪のために神殿がバビロンによって滅ぼさなければならなかった神の嘆きがある。キリストの受肉には、それが深く響いている。確かに救い主の誕生であるが、単に誕生日といって祝うことをためらわせるがある。

 それでもあの幕屋で示された神の栄光は(出エジプト40:34,35)、御子の誕生において神が幕屋を張ることで、間違うことなしに示された。ヨハネはそれを見たのである。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこと満ちておられた。」神の重い栄光は、神の悲しみの歴史のなかに長く潜行していて、時が至って闇の中に輝き出た。荘厳な出来事である。

 御子の受肉は、幕屋の再現である。それで、神は、御子のうちにおられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導かれる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 神の民であることを示していく。

上沼昌雄記

N.T. Wright:聖書をどう読むか

 シンフォニーを聴くように、聖書の壮大な流れに身を置くようにして、読む… 数章ずつ、数節ずつなどのように区切って読むのでなく、一つの福音書、一つの書簡、一つの預言書というように、大きなかたまりで一気に読む。細部まで理解しようとしたり覚えようとする必要はない。むしろ、聖書の流れを感じながら、大きなテーマをとらえながら、みことばに飲み込まれるように読む…

翻訳中…

 Boundaries in Marriage (邦題:「二人がひとつとなるために 〜夫婦をつなぐ境界線〜」)のゲラ校正が終わったと思いきや、もう一冊翻訳中の、"The King Jesus Gospel --The Original Good News Revisited"の仕上げに取りかかっている。暮れの一時帰国の際、出版社の担当の方とお目にかかる予定なので(お初です!)それまでに、一通り仕上げておくべく、頑張り中なう。

 翻訳原稿をチェックしながら、つらつらと考える。翻訳は、英語力以上に日本語力が必要だと言われることもあるが、それはちょっと違うのでは、と。日本語力が必要なのはもちろんだが、そもそも、原文を正しく読み取れなければ、お話にならないと思う。それが大前提としてあっての、日本語力ではないのか。
 正確な訳=直訳、というイメージがあるため、「訳が正確であればいいというものではない、日本語として不自然ならそれは悪い翻訳」、みたいな言い方がされてしまうこともあるが、いくら日本語としてこなれていて読みやすくても、原意から外れた不正確な訳であれば(つまり、著者の言いたいことを正確に伝えていない訳文であれば)、そんな翻訳文には存在意義がない、とさえ、私は思う。(娯楽目的のフィクションなら話しは別だろうが。)
 正確な訳とは、一語一句、逐次で訳されているとか、語順が原文と同じだとか、辞書に出ている訳語しか使わないとか、もちろんそういう次元のことではない。著者の意図を正確に捉え、それを読者に伝えることのできる訳のことだ。結果として、文字面だけ見たら、原文からは随分かけ離れているように見える「原文に忠実な正確な訳」もあるだろうと思う。

 人間というのは、自分にとって意味をなすものに心地よさを感じるものだから、原文を読んですぐに意味がピンとこないと、翻訳者はそれなりに意味が通じるように、つじつまを合わせて訳したくなる誘惑に駆られることがある。あるいは、自分の思い込みが原文理解に、そして翻訳に、反映されてしまうこともある。
 しかし、翻訳には謙遜な態度が必要だ。何より自分が一読者として、著者に教えを乞うという姿勢が必要だ。著者は何を言わんとしているのか、耳を研ぎすませて聴き取ろうとするのだ。もし自分の翻訳文が、原文通りに訳しているはずなのに、どこかすっきりしないなぁと思ったら、まずは、自分が著者の言わんとしていることを読み取りきれていないのだと疑ってかかる。単語一つひとつ、辞書を引き直す。自分の知らない熟語や専門用語が使われているのかもしれないと疑って調べる。自分の理解力を高めるために、辞典や注解書や関連書を読む。「こう訳せば分かりやすいだろう」と思う訳が、実は自分のちっぽけな理解を反映しているにすぎない、恥ずかしい訳文である可能性もあるのだと、自分に言い聞かせる。安易に「こう訳せば分かりやすいだろう」という訳に走るのでなく、何かがおかしいなら、自分の理解度を徹底的に追求する。自分の理解度のレベルに合わせて、著者の言葉を引き下げるようなことがあってはならない、と思うからだ。
 そこまでやってから、ようやく、読みやすい自然な日本語を目指す段階に入ることができる。

 私なりのこだわりだと言えば、まぁそうなのだけれど、そんなわけで、時間がやけにかかってしまうのです。関係者各位、ご迷惑おかけしていてすみません。(…と、ここまで書いてきたのは、自分の仕事が遅いことへの単なる言い訳だったのか! しかも、これだけこだわっていても、出来上がったものは、やっぱりあまり読みやすくない、変な翻訳かもしれないという悲しさ… orz)

The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited

The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited

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