ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

パスター・ビル

 4年前、このブログで「Finding God in your ChristMESS:Messy Families」という、うちの教会でのクリスマスメッセージの一つをご紹介したことがあった。以下、再掲。

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クリスマスに向けて、礼拝で上記のタイトルのメッセージシリーズが始まった。クリスマスというのは、特にアメリカ文化の中ではとかく慌ただしく、静かに救い主の誕生を祝うといった趣きからは遠くかけ離れていることが多い。クリスマスというよりクリス「メス」(MESS=混乱、散乱、乱雑、めちゃくちゃ)になりがちなこの時期の中に、神を見いだして真の意味でクリスマスを祝うにはどうすればいいのだろうか… そういうメッセージシリーズ。第一回めの今日は、「Messy Families!」混乱した家族関係についてだった。

 クリスマスとは特別な祝日であればこそ、その日を大切に、特別に祝いたいと願うもの。家族で集まって、平安と喜びと感謝の中で、この日を迎えたいと思うもの。しかしその願いが高じて、「完璧なクリスマス」を求めて非現実的な期待を抱くようになると、かえって私たちは失望や焦り、怒りや悲しみを覚えるようになる。日本でもそうだと思うが、クリスマスのような祝日には、自殺者の数が増えたり、普段以上に孤独に感じる人が多いのではないだろうか。

 パスターは、バーに入り浸りで深酒をする父親、夫に代わって家族を養うためにいくつもの仕事をかけ持ちし、結果として子どもを顧みることのなかった母親、17歳で家を飛び出した姉、自分自身もそんな家族が嫌いで、ろくに家にいなかった… そういうお世辞にも幸せな家族とは言えなかった子ども時代を振り返りつつ、現実を受け入れて、その自分の現実の中にキリストをお迎えすることの大切さを語られた。配偶者は暴力をふるう人かもしれない。子どもは反抗的で家に寄り付かないかもしれない。実家の親との関係は最悪かもしれない。私たちの家族の状況は、クリスマスが象徴する平安と喜びからはかけ離れているかもしれない。しかしキリストは、そのような私たちの現実を見ても、決して私たちを蔑むことはない。こんな家の食卓には呼ばれたくないと、中座されるようなことはない。主の聖誕をお祝いするのに「理想の家族と過ごす理想のクリスマス」である必要はない。ありのままの現実の家族、家庭生活をそのまま主の前に差し出し、そこにキリストに来ていただこう、そのためにこそ、主は人となってこの世に生まれて来てくださったのだから… というようなメッセージ。

 アメリカの感謝祭、クリスマス、そして日本はお正月と、この時期は「家族」で集まりお祝いをする機会が続く。自分の家族の不完全さが身にしみる季節かもしれない。私も、外国人としてこの国に暮らしていると、この時期は孤独さを感じたり、子どもたちに「親戚一同が集まる」という経験をさせてあげられないことに悲しみを覚えることもある。でも大切なのは、この世の「伝統的なクリスマスのお祝い」に乗っかることではなく、キリストを私と、そしてこの小さな家族の中にお迎えすることなんだよね。ジーザス、あなたが来てくださったこと、そしていつまでも共にいてくださることを、感謝します。
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 ちょうどこのメッセージを思い出して、改めて思いをめぐらせていた次の日曜日、このメッセージをしてくださったパスター・ビルのお父様が亡くなられたという知らせを聞いた。パスターの子ども時代は、このお父さんとの関係は最悪だった。しかし彼がクリスチャンになり、父親を赦し、愛し、受け入れることができた。そして数年前には、このお父さんもイエス様を救い主として受け入れたそうだ。

 本当は、パスター・ビルのブログにあった別の記事(お父様関連で)について書きたかったのだけれど、長くなってしまうので、今日はここまでに…

 ああ主よ、この世は、そして私や私の家族は、あなたをお招きするのに「ふさわしい」状態からは遠くかけ離れたものです。それでも、それだからこそ、私たちのところに来て、あなたの平安を、あなたの希望を、あなたの愛を、あなたの救いを、与えてくださることに感謝します。


The child, the child
Sleeping in the night
He will bring us goodness and light
He will bring us goodness and light

『手紙』

 先週、感謝祭の準備で忙しい最中、東野圭吾さんの『手紙』を一気読みした。彼の作品を読むのはまだこれが3冊めで、一冊目は『白夜行』、次は『片想い』、そして今回の『手紙』。それぞれに異なるタイプの作品だけれど、どれも一度読み出したら止まらなかった。

 主人公は、兄が強盗殺人で服役中。両親もおらず、独りぼっちになってなんとか働きつつ高校を卒業、苦労の末、大学生になり、やがて就職もする。努力に努力を重ね、なんとか人生を切り拓いていこうとするものの、扉が開かれそうになるたびに、兄が強盗殺人犯であることが災いして道が閉ざされる。同じ天涯孤独の身でも、別の理由で一人であるなら周囲も協力してくれるのだろうが、兄が強盗殺人犯で服役中となると、だれも近寄ろうとはしない。頑張ってねと気持ちでは応援してくれも、実際に手は差し伸べてくれない。
 一口に「苦しみ」と言っても、人から同情され助けてもらえる苦しみと、本人のせいではなくても、人から忌み嫌われ疎まれる苦しみがあるのだろうか。隣人愛の理想と現実というか… 気の毒だとは思うけど、頑張ってほしいとは思うけど、でも自分は関わりたくない、という根強い感覚は、たぶん誰の中にもあるものなのだろう… 世の中にある差別、しかも露骨な差別ではなく、「ふつうの感覚」として社会にしみついている差別、そういうものの存在に気づかされる。

 私たちと徹底的に関わるために、神でありながら人となってこの世に来てくださったイエス様は、私たちを救うために、ご自身が人から忌み嫌われ疎まれる苦しみを通ってくださった。こんな愛が、ほかにどこにあるだろう… そんなことも、思わされた。

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