ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

JCFN聖書通読

 4月からまた、JCFNの聖書通読が始まった。今回も去年に引き続き、1日4章ずつ創世記から黙示録まで読んでいくというやり方。私はお正月から1日4章よりもスローなペースで読み始めていたけど、せっかくこちらも始まったので、ジョインすることにした。

 先日、教会で50セント均一の古本市みたいなものがあり、フィリップ・ヤンシーの"The Bible Jesus Read"(『イエスが読んだ聖書』)を今さらながらゲットした。早速読み始め、今日もジムでステッパーを踏みながら30分ほど読んだ。(本を読みながら有酸素運動をする人は多いけど、私のように老眼鏡をかけてまでやる人は珍しいかもしれない。ええ、恥ずかしかったですとも。でもいいのさ。)まぁそれはいいとして、前書きの中で、トーマス・メルトンという人の次のような言葉が紹介されていた。

There is, in a word, nothing comfortable about the Bible --until we manage to get so used to it that we make it comfortable for ourselves... Have we ceased to question the book and be questioned by it? Have we ceased to fight it? Then perhaps our reding is no longer serious.

For most people, the understanding of the Bible is, and should be, a struggle: not merely to find meanings that can be looked up in books of reference, but to come to terms personally with the stark scandal and contradiction in the Bible itself...

Let us not be too sure we know the Bible just because we have learned not to be astonished at it, just because we have learned not to have problems with it.

 一言で言えば、聖書とは決して心地良い本ではないのだ。少なくとも、聖書にすっかり慣れきって、自分にとって心地良いものにしてしまうまでは。私たちは、聖書に問いを投げかけ、また聖書によって自らを問われることを止めてしまったのだろうか。逆らうこと止めてしまったのだろうか。だとしたら、私たちの聖書の読み方は、もはや真剣なものではないと言える。

 ほとんどの人にとって、聖書を理解するとは、葛藤を伴うものだ。単に注解書を読んで意味を調べるだけではなく、聖書自体に含まれる矛盾やあからさまなスキャンダルについて、自分の中で折り合いをつけようとするならば、葛藤を伴ってしかるべきだろう。

 聖書を読んでも驚愕しなくなったから、違和感を覚えなくなったからといって、自分は聖書を知っているなどとわかった気にならないようにしたいものだ。
("Opening the Bible" Thomas Merton 邦訳版を持っていないので、はちこ訳です)

 著者のヤンシーは、これは私たちが旧約聖書を読む時、特に当てはまるのではないかと言っていた。なるほど、確かにそうかもしれない。去年の通読の時、1日4章というペースで読み進みながら、今まで自分がどれだけ多くのことを見落としていたかに気づかされたものだった。旧約聖書には、いろんな意味でびっくりするようなことが詰まっている。わけ知り顔で、さらりと読み流していきたくない。現代の私たちには理解しにくいこともたくさんある。しかしだからといって、何でもかんでも現代の私たちにわかるように理解しようとするのでなく、そのままを受け取っていけたら、と思う。ヤンシーも前書きで言っているように、自分で理解できる範囲での神像を作るのでなく、神様がご自身で現してくださるものを、そのまま受け取っていきたい。

 今回のJCFN聖書通読も、参加する人たちがみな、大いに祝されますように。

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