ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Reminder

 今、通読でサムエル記を読んでいる。今日は第2サムエル9〜12章を読んだ。サムエル記をここまで読んできて、ダビデのこと、サウルのこと、いろいろ思わされることがあるのだけれど、今日は、2年前に11章を読んだ時に私がメモしたことを、自分へのリマインダーとしてここにも書きとめておく。

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 ほんの数章前にはあんなにも謙遜で真摯な祈りを捧げていたダビデだったのに…

 先日、キリスト教書店で『When Godly people Do Ungodly Things』(Beth Moore著)という本を見かけ、思わず手に取ってみた。

 心からの誠実と純粋な献身をもってキリストに仕えていた人が、ある時気が付くとその人のこれまでの神への献身からはとうていあり得ないような、不敬虔な行動の網の中に絡まって身動きが取れなくなっていることがある、決して上辺だけの献身だったとか、裏表のある信仰生活だったわけではないのに、いつの間にかサタンの罠にはまって抜け出せなくなっている人がいる、しかも、そんな人が大勢いる…  

 一体なぜなのか。

 その理由の一つとして、著者のベス・ムーアは「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った(黙示録12:11)」を指摘し、サタンには子羊の血に覆われている者に手を触れることはできないので、代わりに彼らの「あかしのことば」を台無しにしようとするのだと言っている。力強い証を持っている人であればあるほど、サタンのターゲットになりやすい。そういった人の証がスキャンダルによって地に堕ちれば、多くの人がそれによって躓くからだ。

 ベス・ムーアは、18歳でクリスチャンになり、献身の決意をした。ところが、大学に入って、彼女は罪を犯した。こんなに誠実に主に献身を決意したにもかかわらず罪に堕ちるクリスチャンなんて、自分以外にはいないだろうと、彼女は強い恥と罪悪感に見舞われた。しかし何とか立ち上がり、主に再献身した。そして何年もたち、経験も知識もそれなりに積み、キリストにある歩みも安定していたある時、彼女は再び転んだ。今度は前回以上の激しい転び方だった。決してバックスライドしていたわけではなかった。この地上にイエスさま以上に愛するお方はいないと心から思っていた最中での失敗だった…

 この章でのダビデも、王国が安定し、勝利を次々とおさめ、多少は浮ついた気持ちもあったかもしれないけれど、だからといって決して神様を侮っていたり、いい加減にあしらっていたわけではなかったはずだ。きっと彼の心の中では、これまでと変わらず、主を愛し、主を畏れ、主に仕えたいという願いをもって日々暮らしていたはずだと思う。それなのに、王宮の屋上からたまたま見てしまった人妻の行水の姿が、あれよあれよと言う間に彼を罪の罠に捕えてしまった…

 目の誘惑。心の誘惑。サタンは聖書の時代から今日に至るまで、基本的に同じスキームを使って神の聖徒たちを罠にかけようとする。誠実に歩んでいるから大丈夫というものではない。主が私たちに素晴らしいことをしてくださったその証の言葉が、敵の誘惑に堕ちることで汚されてしまわないように、細心の注意を払って自分の心を守ろう。特に、ターゲットにされやすいリーダーたちのために祈ろう。そしてお互いのためにも祈り合い、accountableであるようにしよう。

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