ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

自立と責任

 月曜日、ぼぼるパパがエミの車を修理に持っていった。幸い、車軸などに支障はなく、タイヤを取り替えホイールキャップを買い直すだけで済み、全部で$200ドル弱だった。この修理代は、半分はエミに負担させる。
 最初にぼぼるパパが、修理にかかる費用の半分はエミに負担させると言ったとき、私は反論した。
 「だから私は、最初からエミに運転させることには反対だったのに、やらせてみなさいと言ったのはあなたじゃないの。運転の許可を与えた以上、事故が起きたからってエミに費用の半分を負担させるのはフェアじゃないんじゃない? それは許可を与えたあなたの責任で処理することなんじゃないの?」
 するとぼぼるパパは言った。
 「それは違う。運転の許可を与えるということは、何かあった時にはエミが自分でその責任を取るところまでが含まれるんだ。エミが将来自立して、事故を起こしたら、誰がその責任を取るんだ? 本人だろう? それがリアルワールドというものだ。そこまで経験させるのが今回のレッスンだ。ここで親が修理代をすべて肩代わりしてしまったら、エミに運転の責任を教えることにならない。とはいえ、エミはまだ未成年で親の庇護のもとにいるから、半分は親が出す。これは十分フェアじゃないか?」
 私はうなった。確かにぼぼるパパの言う通りだ。自らハンドルを握って運転するとは、単に行動範囲が広がるとか、より自由にできるとか、それだけのことではないのだ。事故を起こせば、自分や他人が怪我をするかもしれない。車が壊れれば、修理しなければならない。もっと恐ろしいことだって起こりうる。その現実を学ばせるのでなければ、今回思いきってエミに運転させた意味がない。
 私はもう反論しなかった。ただ、修理代があまり高くありませんようにと祈った。もちろん、大きな事故にならなかったことと、エミに必要な助けが備えられていたことも、改めて主に感謝した。
 とはいえ、実際に修理に持っていったのはぼぼるパパだったし、彼女一人ではどうしようもなくなって親を必要としたとき、ぼぼるパパはすぐさま出かけていって彼女を助け出した。責任を自ら負うといっても、まだ未成年のエミは、ぼぼるパパの愛ある裁量のもとで、彼女が負えると思われる分を負担するだけ。そしてこの負担は、決して事故を起こしたことに対する「罰」ではない。
 私は、ぼぼるパパの今回の件における対応に、御父の姿を見た。エミが責任ある自立した大人へと成長できるように、注意深く、愛情を込めて、親としての知恵をもって我が子を導く。私たちは所詮人間の親にしか過ぎないから、事故そのものに対するコントロールは一切きかなかったけれど、御父はそれこそ、すべてのことをそのご支配のもとに置いておられる。すべてが、善き御父の愛ある裁量のもとにある。御父は、私たちを耐えることのできない試練に会わせることはない(第一コリント10:13)し、たとえ私たちが自分の愚かな行動や選択の結果として痛みを経験することがあっても、それもまた主の御手の中にあり、主の道と主の愛を学ぶための機会となる。
 善い御父なる主よ、あなたの御名を賛美し、感謝します。

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)