ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

プロセスの中で働かれる神

 しばらく前に読んだ、臨床心理士の藤掛先生のブログ記事より。とても共感し、いろいろ考えさせられたので、ちょっと長いけれど、引用させていただきます。

統計によれば、人生のある時期、キリスト教信仰を持っても、必ずしもその後長きにわたって教会生活を送るということにはつながっていかない。最近読んだ、ある記事では、平均すると数年で教会を去るといい、ある記事では、10年続けて教会生活を送る人は2割に満たないと、ある。

 私は、こうした問題を点検し、教会としてなすべき自己改善を行おうとすることには、まったく同意する。ただ、こうした話題を耳にするときの前提に、人はきちんとした信仰を持てば、自動的に一生教会生活を送るはずである、という期待がありすぎるように思うことがある。

 人は、その人の大切な生き方を抱きながら生きている。そして、人生の様々な段階に、与えられた課題を克服しながら、生きている。そこでは刻々と変貌し続けている。児童期にある熱心な信仰者が、思春期に入って自動的に信仰を継続するわけではない。そこで、再度、自らの信仰を吟味し直し、思春期への新たな適応をはかるなかで、信仰も質的に変化・発達していく。

 大学生になる。社会人になる。結婚する。親になる。転職や昇格、配置換えで職業上の大変化を経験する。子育てで危機を感じる。大病を患う。など、… 思春期以降も、次々に人生の課題の質が変わっていく。そしてその都度、信仰のあり方も変化・成長を求められるし、ある人は乗り越え、ある人は教会を去っていく。そしてある人は、時間をかけて、別の人生の時期に教会に戻ってくる。

 教会生活の寿命問題を考える際には、「寿命」でなく、回り道であること、そして、もともと最初から信仰に致命的な問題があったのではなく、健全な成長のなかで、信仰の次なるステップに移行するのにとまどったり、失敗したりしたものと考えたほうが良い場合が多いのではないだろうか。

…(後略)… 
(おふぃす・ふじかけ「教会生活の寿命」より。強調ははちこによる)


 育児をする上でも、子供の信仰の成長について親がこれを理解していることは、とても大切だなぁと思った。子供は成長過程でいろいろなところを通る。とくに、児童期から青年期に移行する時期というのは、身体的にも精神的にも、対人関係的にも、子供は急激な変化を通っている。信仰も例外ではない。よく言われることだけれど、これまでは親の信仰の上におぶさっていたのが、自分の信仰を確立させるとき。その中で、疑ってみたり、抵抗してみたりすることがあっても、少しも不思議ではない。むしろ当然だと言える。
 子供がそういうところを通るとき、親は、「大変だ、子供が神様から離れてしまった!」と慌てるのでなく、慌ててますます厳しく押さえつけたり、絶望してあきらめたりするのでなく、子供の信仰が確立されていくために必要な葛藤の時期なのだと、理解してあげたい。そして、悩み葛藤している子供を受容しつつ、祈りをもって見守ってあげたい。(もちろん、時には親の介入が必要なときもあるだろうけれど。)

 このようにいろいろな回り道をするのは、子供の成長過程だけではないだろう。青年期以降に入って、それなりに自己が確立されたあとでも、霊的には私たちはまだまだ成長の旅路の途中にあるのだから。人生の中で自分が通っているそれぞれの段階(進学、就職、結婚、育児、リタイヤetc.)で、私たちは様々な体験をする。その体験の一つ一つは、私たちを霊的にも成長させるために神様が用いられる、重要なビルディングブロックなのだと思う。
 そして、人の目には「バックスライド」「信仰の寿命が尽きた」ように見えるときでも、実は神様はその人の人生の中で一層活発に働いておられるのかもしれない。新しいものを建てるために、それまであったものを一旦完全に壊し、取り除くというプロセスを経ることもある。(それまであるものの上に、付け加えるように建てるときもあるだろうけれど。)Deconstruction provides an opportunity for reconstruction.

 自分がそのプロセスを通るときも、ほかの人が通っているのを見るときも、「ダメだ」「敗者になった」「(信仰を)捨てた」と思うのでなく、そのプロセスの中で最善のタイミング、最善の方法で働いておられる主の御手を信じ、信頼していきたい。


 昨日、クリスチャンホームに育ったという24歳の方からメールをいただいた。このブログの「成長の四つの段階」の記事を読んで、これまで自分の中でずっともやもやしていたものが、すっきりしたとおっしゃってくださった。これまでは、四つの段階のうちの2と3を行ったり来たりし、3にいるときは辛くてたまらなかった、でも、今回あることに気づかされ、3を乗り越えて4に入れたとおっしゃっていた。今後もまた3に戻るときもあるかもしれないけれど、今はただ感謝です、と。私もとても嬉しかった。

 人によっては、3の段階に入ると、絶望して一旦教会から離れてしまうかもしれない。しかし、それを経てこそ、質的にも大きく成長させられて信仰を取り戻す人は大勢いる。

 あせらずに行こう。主は確かに導いてくださっている。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。 (ピリピ1:6)


 追記:JCFN関係の皆様:藤掛先生のブログに飛んで、ぜひ引用の記事を最後までご覧下さい。帰国者のことにも言及されています!

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)