ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

D先生のこと

 D先生はOMFの宣教師で、かつては日本におられたが、今ではアメリカで活動しておられる。私が初めてD先生に出会ったのは、もう16年くらい前のこと。先生には3人のお嬢さんがおられ、当時は3人とも小学生だった。

 去年の夏、6〜7年ぶりくらいでD先生とお会いする機会があった。一番上のお嬢さんが結婚したばかり、一番下のお嬢さんが婚約したばかりで、結婚式や婚約のときの写真をたくさん見せてくださった。
 しあわせそうなお嬢さんがた、そしてしあわせそうなD先生ご夫妻…
 でも、実はここに至るまでは、決して順風満帆ではなかった。すらりと背が高く、まるでモデルのように美しい一番上のお嬢さんは、十代の一時期、薬物を使用していた。そして、家を出て、連絡不通の時期もあった。親としては、どれだけ心痛むことだったろうかと思う。彼女を知っている私たち周りの者たちも、彼女のために祈っていた。そして長年の祈りを経て、今回、しっかりしたクリスチャン男性と、両家の祝福のもとで結婚した。
 一番下のお嬢さんは、決して親に反抗するというわけではなかったけれど、主からは離れていた。ノンクリスチャンの青年とつき合い始め、同棲すると言い出した。D先生は、その青年のことは気に入っていたけれど、同棲というのは先生ご夫妻の価値観に合わない。そこで、青年を呼んで昼食を共にしながら、それはやめてくれないかと頼んだのだそうだ。青年は、先生の言うことによく耳を傾けてくれたそうだが、お嬢さんのほうが、その翌日、家を出てしまった。
 しかし先生は、「けしからん! 同棲などするなら勘当だ!」といった反応はなさらなかった。お嬢さんの選択に心を痛めつつも、この若い二人と交流を絶つことはなかった。青年との関係も個人的に深めていき、あるとき彼は先生に、「先生ご夫妻に出会ったことで、私のキリスト教観が変わりました。これから、イエスのことをもっと知りたいと思います」と言ったそうだ。
 そして去年の夏、この二人も一緒に先生の家でBBQパーティーをしていたとき、お嬢さんが席を外したすきに、青年が先生にこう言った。「じつは、今日お嬢さんにプロポーズしたいと思っているのですが、許可をいただけますでしょうか」。先生は驚きつつも、喜んで、「もちろんだよ。では僕たちは席を外そうか、それとも二人で散歩にでも出るかい?」 しかし青年は、「いいえ、ここにいらしてください。ご両親の前で彼女にプロポーズしたいのです」。そしてお嬢さんが戻ってくると、彼は彼女の手をとり、ひざまずき、ポケットから婚約指輪を取り出して、皆の見ている前でプロポーズしたのだそうだ。
 そのときの様子を先生はたくさん写真に収めておられ、お嬢さんが泣いている写真やら、奥様が泣いている写真やら… (それを見せてもらった私も完全にもらい泣き。)

 この話を聞きながら、なんて素晴らしいのだろう!と思った。昨日の話(「プロセスの中で働かれる神」)と関連して、宣教師を両親に持ったお嬢さんたちは、子どもの頃からそういう世界にどっぷりだったけれど、青年期に入り、もがきながら、自己を、そして自分の信仰を確立させるプロセスに入った。そのプロセスはかなりの荒波だったけれど、それを見守る先生は、子どもたちがたてる波が津波となって襲ってこようとも、振り回されることなく、お嬢さんたちの錨となって受け止め続けたのだと思う。
 また、お嬢さんたちの側の話を聞いていないからわからないけれど、もし聞くなら、きっと彼女たちの体験は、第三者が思うような「主から離れていた時期」どころか、そこかしこに神様の絶妙なご配剤、レッスン、守り、時には懲らしめ、導き、憐れみ…そういったものが散りばめられていたに違いない。親の目には見えず、手も届かないようなところで、青年期の子どもたちは神様から直接のお取り扱いを受けていたに違いない。たとえ、本人はそれをはっきり自覚していなかったとしても…

 下のお嬢さんと婚約したこの青年は、タトゥ(刺青)を入れているそうだ。先生は、彼らを愛し受け入れていることの一つの表現として、自分もタトゥを入れてみようかと考えているとおっしゃった。「次に会うときに、私がタトゥを入れていても、驚かないでくださいね」、ニコニコしながらそうおっしゃった。その瞳に、私はジーザスを見た。

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