ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

無条件の愛と「支配」という名の暴力

 最近、ある姉妹から、次のようなメールをいただきました。許可をいただいたので、お分ちさせていただきます。(プライバシー保護のため、一部伏せ字にしました。)

先日メールをいただいた日に、このような記事を見つけました。

http://rihabirikoara.jugem.jp/?eid=1328

…うすうす感じていましたが...「あ!!」という感じでした。「ぎょ!!」かな〜

私の献身的な行いによって、無条件の愛で、夫を救いに導きました、と、どこかで言いたい私がいたのです。
だけど、心の中には夫に対する怒りが隠れているのです。そして、私は夫に「私を満足させて欲しい!私がうれしい方法で私を愛して欲しい!」という思い。そこには夫のやり方での愛し方は、受け取らないよ!という気持ち。
柔らかいようで、相手を支配しようとする思い。
すべての口が主を救い主として告白すること、は、主の願いでしょうが、そこには人の自由意志も与えられている。
私が無理やり夫に、キリストを信じさせようとすることも、ある意味暴力、ということ。

 無条件の愛ということ、実は私も最近繰り返し思わされていたことだったので、あまりのタイムリーさにびっくりしました。先日の「配偶者に満足できない」の記事でも言及したように、「聖書的な夫婦関係こそ神様の御心なのだから、それを求めるのは当然」と思う気持ちの背後には、本当に、誠実に、主の御心・主のご計画を求めるだけでなく、「聖書的な結婚生活をおくる自分に対する満足」と言うか、とても巧妙な自己中心が隠れているのではないかと… 聖書的なものを求めているのだから、私は正しい、という思い。そうなると、「私はせっかく主の御心を求めているのに、あなたがその足を引っ張っている」という目で配偶者を見てしまうかもしれない… そんなことを思わされ、ぞっとしていました。人間って、どこまでとことん、自己中心的なのでしょうね… 神様が私たちに差し出してくださった本物の「無条件の愛」には、「操作」の入る余地など一切なかったのに、私たちの「愛」は、なんと多くの操作的な思いに満ちていることか…

 そしてこれは、育児においても言えること。子どもに信仰を継承させたいという願いが、本当に子どもの魂のために願っていることなのか、それとも「ちゃんと子育てしている自分」の勲章とするために願っているのか… 「クリスチャンホーム」というものも、私たちの心の在り方次第では、一つの偶像になりかねない… 知らず知らずの間に、子どもに対して、「クリスチャンホームの子どもらしく振る舞わないと、愛さないよ」という無言のメッセージを送っていないか、親(私)は絶えず自分を振り返る必要があるかもしれない…
 実は、私自身の子育ては、ブログを始めたりさまざまなミニストリーに関わるようになって以来、「立派なクリスチャンホームを築く」という誘惑(つまり、「理想のクリスチャンホーム」という偶像)との戦いだったとも言えます。(このあたりは、話し始めると長くなるので、また別の機会に…)


 とにかく、上のリンク先の記事、お時間のある方は、ぜひお読みください。その中に、

そういう意味では、「家族の為に」って言いながら、
実は私自身が「支配」という暴力を行っていたのかもしれません。

支配とは、あらゆる手段を使って、人を自分の思い通りに動かす事。
それは暴力。

 という一節があり、これはまさに、先日私も思わされていたことでした。でも、ここまではっきり認めることはできなかった。認めたくなかったから。でも、そう、それは「支配」という暴力だったのですね…
 夫に、「あなたのためでしょ!」と言いながら、実は夫の行動を支配しようとしていた。「家族のため」と言いながら、自分で勝手に思い描いた理想像に家族をはめこもうとして、うまくいかなくて私が怒り出した、なんてことは、今まで数えきれないほどあった… (そういえば、新婚の頃に「クリームコロッケ事件」というのがあって、まさにそういう出来事だった。それについてはまた今度。)

証しの為にといいながら、実は、神様ご自身の介入の邪魔をしていたのかもしれません。

 というくだりも、本当に深い洞察だと思いました。

 それにしても、感謝だなぁと思うのは、主から与えられる気づきは、むやみに自分を責めたり自己嫌悪に陥らせるものではなく(自己嫌悪は確かに感じるんだけど…汗)、むしろそれまで自分を縛っていた見えざる鎖から解き放ってくれるものだということ。そして、ますます私たちに主を求める切望を与えてくれること。自分がボタンを掛け違えていたと気づくことには悲しみや痛みも伴うけれど、気づいたなら、主の憐れみと恵みの中で、やり直すことができるから… 主の「恵み」が、ただただありがたい… ひたすらそこにすがるのみ。

神様に期待しています。(コアラさんのブログより)


 お分ちくださったAさん、どうもありがとう。そしてリンク先のブログ記事を書いておられるコアラさんにも、心から感謝します。

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