ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

土の器と宝

 昨日の記事にいろいろなコメントをいただき、どうもありがとうございます。私の方からも、コメント欄に次のように書かせていただきました。こちらにも転載します。

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 私たちは永遠に変わらない真理である神の言葉を慕い求め、それを学ぼうとしているわけですが、私たちはあらゆる面において有限で、さまざまな制約を受けている。理解力という制約だったり、生きている時代や文化という制約だったり…


 逆に言えば、だからこそもっと柔軟であるべきだと思うのです。「聖書は神の言葉なのだから絶対だ」と言いますが、そしてそれはまったくそのとおりなのですが、それを受け取っている私たちの方は少しも「絶対」ではなく、さまざまな制約の中にあるということ。聖書は変わらないけれど、神学は、その時代に起きていることに反応したりプロテストしたりしながら、時代と共に変わっていくこと。
科学の知見が増えて、宇宙や人間の歴史について、以前は分からなかったことが分かってきたなら、それを考慮に入れつつ、神学が変わっていくとしても、なんら問題はないと思います。それは神の言葉が変化したのではなく、ましてや神の言葉を軽んじるのでもなく、神の言葉を理解しようとしている私たちの理解力が変化しただけなのですから。

 「神の言葉は絶対だ」と言いつつ私たちが固守しようとしているものは、実は「神の言葉」ではなく、自分の解釈だったり立場だったりプライドだったりすることも、時にはあるのではないでしょうか… そうなると、せっかく神様が私たちの理解力を助けるために新たに与えてくださったものを、そうとは知らずに拒絶してしまうことにもなりかねませんよね…

 2週間くらい前に、私は「"今はまだ成長過程にある自分"というコンセプトに、もっとcomfortableにならないといけないなと思った。もしかしたら、それが「謙遜」ということなのかもしれない」と書きましたが、ここにもそれが当てはまるのではと思わされました。神様は、私たちが個人としても、キリスト者の群れとしても、このような成長過程の中にあることをご存知で、この地上に生きている限り、何らかの制約の中でしか主の御言葉を理解できない存在であるのもご存知ですよね。パウロが第一コリント13章12節で言った言葉を思い出します。

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

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 いかに私たちが小さく、限られた存在であるのかを思います。と同時に、それにもかかわらず、神様は主を求める思いを私たちに与えてくださり、確かにご自身を現し、私たちと関係を持ってくださっていることに、深く感謝の念を覚えました。壊れやすくて、見た目も冴えず、それ自体では何の価値もないこの土の器に、尊い宝を入れてくださっている主の御名を、心から崇め讃えます。

「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 (2コリント4:6、7)

Soli deo gloria!

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