「心の刷新を求めて」書評
高橋秀典先生よりお知らせいただきました。クリスチャン新聞に掲載された『心の刷新を求めて』の書評がオンラインでも読めるそうです。
リバイバルジャパン誌にも掲載されたそうですが、オンラインでは読めないようですね。
いずれにせよ、書評を載せていただき、感謝です。
高橋伸多先生が代表をされているという「みくに・ひとやすみ」に関する記事もありました。(鹿子さん情報)
- 牧師さん、みくにでひとやすみしませんか−−牧会経験から「静まりの家」開設(クリスチャン新聞2009年09月27日号)
抜粋:高橋さんは、「安息」という言葉に以前は実感が乏しかったという。「信仰を『自分の願いや思いを捨てて神に従うこと』と理解する傾向が強かったことと関係があるのかもしれない」と、「牧会ジャーナル」08年秋号に書いている。だが今は、「日々の労苦から解放されてひとりになる静かなときを大切にしないなら、私たちは容易に人と仕事の奴隷となり、人生をいのちにあふれたものとなるように導こうとされている生ける神との交わりから遠くなってしまう。その結果、周りの人々も私たちの奉仕を通してあずかれるはずの神のいのちにあずかれなくなってしまう」と理解が変わった。
転機は01年、「牧会者と霊性」セミナーに参加してから。主の前に静まり、みことばを思いめぐらし、歩んできた道をふり返り、自分の心に注意を向けた。主の前にたましいを静めることがどうしても必要であり、神のもとで身も心も休ませていただくことがどれほど力になるかを経験した。「視野が広げられ、やさしい心で自分や人や物事を見ることができるようになりました。急いで問題に当たろうとしなくても、神にお任せし神の時を待つ方がよいことも分かってきました。自分ひとりで重荷を負うのでなく、ともに負って下さる主とともに働く。貧しい自分だけれど、そんな者を通して働かれる主のなさりようを見せていただきたいと願うようになり、自分を責めることが少なくなりました」
この数年、「プロセスを通して(プロセスの中で)働かれる神」ということをずっと語られているが、高橋伸多先生が語っておられることも、それに通じるなぁと心にしみた。
この数週間の間に起きたことも、主が働いておられる長いプロセスの中で、どのような位置づけになるのか、どのような役割を担うのか、そんなことを*ゆっくりと*考えている。今はたぶんまだ分からない。分からなくていい。自分の中に、「今回のことにはこういう意味がありました」とすぐに結論を出したい欲求があるけれど、神様はあせる私をそっと制止し、にっこり微笑んでおられる。結論にとびつくのでなく、神様がこのプロセスの中でなさっていることをじっくり味わい、その流れの中にいたい。そういう思いで、ゆっくり思いをめぐらせている。