ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

言いにくいことを伝える

 ツイッターで、近年の牧師の不祥事続きに関連して、教会内で(特に信徒が牧師に)ノーと言えるようにするためにはどうしたらいいか、という話題が出ていた。教会内に限らず、日本人は人と異なる意見を言ったり受け入れたりするのがどうも苦手なように思える。「和」を大切にする日本人にとって、他者と異なる意見を述べることは、何か攻撃的なことだ感じてしまうのかもしれない。言う側も言われる側も、妙に構えてしまったり、あるいは違う意見を持っていても全く言い出せないで終わってしまったり… また、言うべきことも、相手に遠慮しすぎてうまく言えないこともあるかもしれない。いわゆる「コンフロンテーション(対決)」は、日本人はかなり苦手なのではないだろうか。(そもそも、「コンフロンテーション」に相当するピッタリした日本語がない!)
 そういえば、数ヶ月前に、クリスチャン新聞の連載記事で「言いにくいことを伝える」というテーマを取り上げた。この連載はヘンリー・クラウド博士の『厄介な上司・同僚に振り回されない仕事術』のエッセンスを紹介するという趣向のもので、「言いにくいことを伝える」というのも本の中で言及されているトピック。(そもそも、これは、Boundaries Face To Faceという本でクラウド&タウンゼント博士が詳しく取り上げたものらしい。)
 クリスチャン新聞に掲載されたのは、『厄介な…』の中で言及されていたことをさらに要約した感じの記事なのだけれど、何かの参考になるかもしれないので、こちらでもご紹介します。(ちょっとだけ編集してあります。もっと詳しく知りたい方は、『厄介な上司…』をご参照ください。)

 「働く人の境界線」となっていますが、職場だけでなく、教会内での奉仕者同士の関係、牧師と信徒の関係にも応用できるのではないかと思います。

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働く人の境界線 〜10のレッスン〜
レッスンその2:言いにくいことを伝える(前)

 人間関係では、言いにくいことでも伝えないわけにはいかない時があります。仕事の場面では特にそうでしょう。その際まず覚えておきたいのは、「ネガティブな情報とネガティブなコミュニケーションは違う」ということです。
 ネガティブな情報とは、簡単に言えば相手が聞きたくないと思っている情報で、たとえば相手の仕事に対する厳しい評価や処分などです。ネガティブなコミュニケーションとは、相手を傷つけたりこき下ろしたり、感情を逆なでする言い方で情報を伝えることです。
 ネガティブな情報は人生につきもので、避けては通れません。しかしだからと言って、相手を傷つけるような方法でそれを伝える必要もありません。聞き手は、情報の内容もさることながら、むしろあなたの言い方に反応するものです。自分のことを考えてくれているか、責めているのか、助けようとしているのか、 敵対しているのか、敏感に察知します。責められていると感じれば、防御的になるでしょうし、友好的だと感じれば、心を開いて話し合いに応じるでしょう。
 そこで、言いにくいことを伝える会話がネガティブにならないために、次のことを避けるよう気をつけるといいでしょう。

  • 怒りのこもった声
  • 攻撃的な姿勢
  • 見下すような態度、皮肉っぽい表現
  • 相手に罪悪感を起こさせるような言葉や表現
  • 相手に恥を感じさせるような言葉や表現
  • 冷たい、無関心な振る舞い 

 さらに、会話の進め方でも工夫することができます。あなたが言いにくいことを伝えようとしている理由は、相手を非難するためでなく、今うまくいっていないことを改善し、互いの共通のゴールに向かって共に前進するためであると相手にわかるように話すのです。
 そのためには、相手の人格や能力を認め、一緒に仕事をしていることへの感謝や喜びを示し、互いの共通のゴールを確認するところから始めます。その上で、必要なことを誠意をもって伝えます。相手の性格を決めつけるような言い方(「君は無責任だ」)や、抽象的な言い回し(「もっとしっかりしてくれ」)は避け、あなたが何を求めているのか具体的に表現しましょう。一方的に言い渡すのでなく、提案という形にして、相手の意見も求めるといいかもしれません。
 パウロはコリントの信徒に、自分は彼らの「喜びのために働く協力者」(2コリ1・24)だと言いました。この認識は、職場での人間関係にも当てはまるのではないでしょうか。

レッスンその2:言いにくいことを伝える(後)

 言いにくいことでも伝えなければならないときがあるのはなぜでしょうか。現状の望ましくない部分を改善し、業績や人間関係などをより良いものにするためです。こういった会話をするとき、なぜ今それを言おうとしているのか自分の動機と目的を意識していると、感情的にならずに会話を進めるのに役立ちます。先にお分かちした点に気をつけつつ、祈りと配慮をもって効果的にコミュニケートしたいものです。
 しかし、時には相手の気持ちに配慮しすぎて、肝心なことをはっきり言えなかったり、相手の言い分にうまく丸め込まれたりしてしまう場合もあります。
 世の中には、こちらが問題を指摘しようとしても、さまざまなことを言って責任を回避しようとする人がいます。本人は無意識かもしれませんが、話をすり替えたり、問題を過小評価したり、怒りだしたり、逆にあなたを非難したり、自分の苦労を語ってあなたの同情を買おうとしたり、ありとあらゆる方法で肝心の問題から焦点をそらそうとするのです。相手の言い分がもっともで、それに応じて適切な調整が必要な場合もありますが、単なる言い訳に過ぎないこともあります。
 そういう場合は、「いったん相手に共感を示し、それから元の問題に戻る」のだと覚えておいてください。
 しっかりした境界線を持つ人は、相手のペースに飲み込まれず、自分を保つことができます。相手の気持ちにおかまいなしでいいという意味ではありません。むしろ相手の言い分や事情にはしっかり耳を傾け、心からの共感を示します。「なるほど、それでは君が難しいと思うのも無理ないね」「あなたも頑張ってくれているのね。感謝しているわ」等。そして共感を示した後は、元の問題に戻ります。「しかし、ここで私が確認したいのは…」「ただ、今私があなたに頼んでいるのは…」。相手がそれに応答するまでは、焦点をずらしてはいけません。
 あなたが問題視していることに相手が応答したら、今度はそれに具体的にどう対処してくれるつもりなのか、確認しましょう。問題改善のために、相手の側にもあなたに要望がないか、尋ねてみましょう。
 愛と配慮を持ちつつも、問題には妥協しない態度が必要です。このバランスは会話のスキルとして習得可能でしょうが、私たちを内側から変えていってくださる主は、単なるスキル以上に、キリストの品性の自然な現れとして難しい会話もスムーズにできるよう助けてくださると思います。

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