ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

"Good Samaritan" Study

 1973年に、プリンストン大学社会心理学者ジョン・ダーリーとダニエル・バットソンが、神学生を相手にある実験を行ないました。ウィキペディアに記述があったので(こちら)、そこから抜粋します。(英語での説明はこちら

学生に聖書のテーマに基づく短い即興の談話を依頼するというもので、学生が会場に向かうと、途中に行き倒れた人がいる。つまり「善きサマリア人」の状況を再現して、その反応を見るという実験だった。実験にあたり、以下の変化を付けた。

1. 学生の、神学校への志望動機について、宗教を個人の精神的な充足の手段と思うか、日常生活に意味を見いだすための実践かを尋ねた。
2. 依頼する談話の内容を、職業としての聖職者と宗教的使命の関係を主題とするものと、「善きサマリア人」のたとえ話を主題にするものに分けた。
3. 会場に送り出す際、「あ、遅刻だ。向こうでは数分前からきみを待っている。急いだ方がいい」と言う場合と、「まだ数分の間があるが、そろそろ出かけた方がいいだろう」と言う場合に分けた。

ここでどの学生が「善きサマリア人」を演じたかを予測して貰うと、「志望動機が実践的で、善きサマリア人のたとえ話を談話の主題にした学生」との答えが大半を占めた。

しかし、どちらの要素も大勢に影響は与えておらず、最後の「急いでいるかどうか」が学生の行動を左右していた。すなわち、遅刻だと言われたグループが行き倒れた人を見て立ち止まった割合は10%、数分の間があると言われたグループは63%だった。つまり、善きサマリア人のことを考えているはずの神学生でも、行動しているときのその場の背景(つまり、遅刻するかどうか)ほど重要ではなかったのである。

 この記述はちょっとわかりにくいかなと思いますが、要するに、用事があって出かける途中の神学生が、道ばたで倒れて苦しんでいる人を見かけたとき、「善きサマリヤ人」のように助けを差し伸べるだろうか、という実験です。
 結果は、急いでいる神学生は、その9割が立ち止まることなく通り過ぎていったけれど、時間にゆとりのある神学生は、6割以上の人が立ち止まって、助けをさしのべた、ということでした。急いでいた神学生は、神学校での学びを自分の生活で実践したいと思っていようと、これから自分が「善きサマリヤ人のたとえ」について話をすることになっていようと、いざ倒れている人がいたときには、その人を無視して通り過ぎていったのです。神学生が倒れている人を助けるかどうかの一番の要因になったのは、彼らの信条よりも何よりも、そのとき彼らが急いでいたかどうかだったのですね。

 これは実に興味深い実験だと思います。私たちは隣人を愛するように召されているけれど、日々の働きで忙しくなりすぎていると、結局隣人を愛せなくなってしまう、ということではないでしょうか。隣人を愛するための働きなのに、その働きのせいで愛するゆとりがなくなってしまうなら、何と皮肉なことでしょう。
 さまざまなミニストリー、プロジェクト、プログラム、イベントを計画し、立ち上げるのも、主の導きであれば素晴らしいことですが、「良い働き」をすることに夢中になって、自分の身近で痛み、倒れている隣人に、手を差し伸べてあげるゆとりがなくなっているのなら、残念なことだと思います。

 われらがイエス様は、確かに大勢の群衆に向かって教えもされましたが、個々の人たちのところにも出向いていって、助けの手を差し伸べておられなかったでしょうか。
 大勢に効率よく届いていくというのは、確かによいことであり、必要でもあるでしょう。でも、何かを「効率よく」行なう背後には、手を差し伸べてもらえることもなく切り捨てられているいくばくかの人たちもいるということではないかなと、最近そんなことが気になっています。
 

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