ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

かきごおり先生のブログより

 かきごおり先生のブログの記事にとても励まされたので、メモ。っていうか、転載。(先生、すみません。)

「わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。」レビ記16章2節。


「贖いのふた」とはイエスのことを予表するもの。
イエスの十字架を予表するもの。
そこにご自身が現れてくださる。


そう、神さまはいつも十字架の上にご自身をあらわされる。
その愛を知りたければ、十字架を見ればいい。
それなのに、いつの間にか、私たちは、
「物事の順調さ」に神を見ようとする。


たとえば、健康が与えられたり、
仕事が順調だったり、
子どもが願っていた学校に進めることの中に、
神様の祝福を見ようとする。


だから、うまくいかないと、
「神様の愛がわからない」となってしまう。


でも、聖書はそんなところに神の愛をさがすなよ、
と言っていると思う。


いかにも神さまが祝福してくださっている、
というところよりも、
神さまがおられるなら、どうして、というところにこそ、
私たちのちっぽけな頭で、一番「神さまらしからぬ」ところに、
ご自分をあらわされる。


十字架はその極致。


人々は「お前がそこから降りたら信じよう」とののしった。


そう、人間の常識では、
神だったら、神の子だったら、
そこから降りることができて当然だ、
いや、そこから降りるべきだ、
そんなところにイエスは行かれたのだ。


なのに、私たちはいつの間にか、
「トントン拍子に行く」
「うまく物事が進む」
ことのなかに、「神さま」を見ようとしていないだろうか?


十字架のもとに行こう。
そして、自分自身も十字架を負って歩み始めよう。
そこに神さまがおられるというのだから。

 人々が「お前がそこから降りたら信じよう」とののしるまでにひどい場所。それが十字架。
 でも主は、その十字架を通して私たちに出会ってくださる。

 「お前がそこから降りたら信じよう」とあざけりののしられるくらいひどい場所にいるなら、喜ぼう。喜んで感謝しよう。主はそこにおられるから。

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