Embracing sorrow
5、6年前のこと、シカゴJCFNの日本語バイスタで、「12の誤解」をテキストに学びをしたことがあった。その中のどういうコンテキストだったか思い出せないが、ある神学生の女性が、彼女の友人のことを分かち合ってくださった。その友人も神学生、あるいは宣教師で、確かお子さんを亡くした方だった。彼女がある時その友人に、「How are you?」と挨拶をしたら、その友人は、「I am fine, but a little bit sad. I'm fine, but always a little bit sad.」と答えた、というような話しだった。
その方は、悲しみに打ちひしがれて身動き取れなくなっているというわけではなく、召しに忠実に応え、着々と働きを進めておられるのだけれど、愛する我が子を失った悲しみを心のどこかにいつも抱えている…。そのことを分かち合ってくださった神学生の女性も、あれこれコメントするのでなく、ただ、そういうことがあった、という話を分かち合ってくださった。
そして私も、その分かち合いが、不思議と深く印象に残っていて、折に触れては思い出す。
I'm fine, but always a little bit sad.
彼は… 悲しみの人で、病を知っていた。(イザヤ53:3)