ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

コイノニアの記事

 昨日送られてきた、関東地区KGK卒業生会ニュースに掲載されていた太田和功一氏のインタビューが、とっても良かった!「第2回」となっていたけれど、どうしてだろう、第1回を読んだ記憶がない。残念。

 今年のコイノニアのテーマが「神との深い交わりを回復する」ということらしいのだけれど、それに対して、編集委員さんたちの間で「回復」という発想が出てきたことに、太田和さんが問いかけをしておられる。
 「回復」ということは、かつてはあったものが今は失われていて、もう一度取り戻そうとしているということ。しかし、回復したいと思っている元のイメージは、どういう状態のことなのか?と。
 たとえば、学生時代はKGKでがっつり鍛えられた「静思の時(デボーション)」を持てていたけれど、社会人になったら忙しくて思うようにそれが持てなくなった、とする。しかし問題は、学生時代に持っていたようなデボーションを再び持てるようになることなのか? 聖書を開き、一人静まって祈る、というスタイルでのデボーションだけが、神との深い交わりを持つ方法なのか? それは特定のイメージに拘泥されたスタイルやテクニックの問題ではないのか…? むしろ、自分は何のためにそれをしているのか、ということに自分なりの答えを持っていないと、そういったことが形式だけ、頭の中だけの活動になってしまう、リアリティ(神との生きた関係という?)がなくなってしまう… しかし、神様との交わりとかデボーションといったことは、自分にとってどういうことであり、何のためにしているのかということが自分の中ではっきりしていれば、その目的に到達するための手段はいくら変わってもいいのではないか。…

 先日、あめんどうのクレオパさんの依頼で、クレオパさんの働きを支える会のニュースレターに『心の刷新を求めて』の翻訳者として寄稿させていただいた。その記事で、『心の刷新を求めて』から学んだことの一つとして、「土の器と宝」について分かち合わせていただいた。霊的形成のためにはさまざまな霊的修練と呼ばれるもの(祈る、聖書を読む等など)が有益だけれど、具体的な方法はいわば「器」であって、本当に大切なのは、その器の中に入れられる宝ーーすなわち、生きた神との愛の交わりーーであるはず… 器なしでは宝を持つことはできないけれど、器にこだわりすぎて、器ばかり立派で肝心の宝は入っていない、ということにならないように… というような話し。このコイノニアのインタビューで太田和氏がおっしゃっているのも、まさにそういうことではないだろうか。
 太田和氏は、「子供や乳飲み子を抱えているお母さんなんかは、デボーションっていっても難しいよね。でもさ、方法だから、違う方法を考えるとか…」ということをおっしゃっている。これも私的に大ヒット。ブログに書いたことがあるかどうか、覚えていないけれど、若いお母さんたちに個人的に何度か次のようなことをお分ちしたことがある。
 私も、子供が幼いころは、いわゆる「デボーション」が持てなくて悩んだ時期があった。でも、教会でほかのお母さんが、「私はキッチンのテーブルにいつも聖書を開きっぱなしにして、読めるときにちょっとずつ読んでいるの」と言うのを聞いたとき、「これだ!」と思った。エミやみんが赤ん坊の頃はいつもてんてこ舞いで、実際の食事でさえも、ゆっくり座って食べることすらできず、立ったままお茶碗もって口にかきこむ、みたいなこともあった。御言葉もそれでいいんだ、と思った。ゆっくり座って食べられないから食事は一切しませんなんて言ったら飢えてしまう。霊的にも同じで、ゆっくりデボーションの時間が持てないから聖書読めません、祈れませんなんて言ってたら、霊的に枯渇してしまう。だから私も、キッチンカウンターに聖書を開きっぱなしにして、食事の支度をしながら、皿洗いをしながら、聖書を読んだ。一節ずつでも、読んだ。洗い物をしながら、お鍋をかきまぜながら、祈った。それが当時の私を、霊的につないでくれた。(洗い物をしながらの祈りは、今でもしょっちゅうやってる。)いつも聖書をテーブルやカウンターに出しっ放しにしていたので、子供にいたずら書きされたり、ビリビリにちぎられてしまったページもある。(あとでピンセットで拾ってセロテープで貼った。)今となってはなつかしい…

 太田和氏は、私が大学1年生だった頃、KGKの総主事をしておられた。私はご本人と直接お話したことはなく、KGKのニュースレターなどでお写真を拝見したことがあるだけ。と〜ってもダンディーで素敵な方、という印象だった。しかし(?)今回のインタビュー記事で、太田和氏の言葉遣いがとてもカジュアルなのに、イメージが変わったというか、親しみを覚えたというか…(笑) いつかお目にかかってお話できたら嬉しいなぁ〜!

追記:今日のJesus Creedのブログ記事に、ここで触れたようなことがちょうど話題になっていたのでメモ。

聖書を読む、祈る、瞑想するなどのいわゆる「霊的修練」は、それ自体が目的なのではなく、真の目的に達するための手段であること。そしてその目的とは、「神を愛し、隣人を愛する者となること」、などなど。Jesus Creedでは、さらにそれを、主にあるコミュニティーレベルに持っていくためのディスカッションがなされている。いわゆる、Missional community.

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