ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

MEMO:日経ビジネスより

 参考になった記事二つ。どちらも河合薫さんという方によるもの。

 ……ストレスの多い時期に重なった震災に伴うストレス。その雨に濡れてしまった人たちが、震災から1カ月以上たった今も、「何となく調子が悪い」状態から抜け出せずにいる。……そこで今回は、「何となく調子が悪い」状態からの脱却法について考えてみようと思う。
……
 つまり、スピルオーバーは、ストレスを感じている人の気持ちに寄り添えば寄り添うほど起きやすく、「何とかしてあげたい」とか、「彼(彼女)のために何かできないか」という気持ちが強いほど生じやすい現象なのだ。

 震災以降、「何となく調子が悪い」と不調を訴えている人は、スピルオーバーと似たような状態に陥っていると考えられる。

 ただでさえ震災直後、繰り返し放映された津波が町や村をのみ込む映像は衝撃的だった。海外の様子であれば、スピルオーバーが起こるほど感情移入をすることは稀だが、自分の国の出来事で、しかも同じ時刻に“揺れ”を体感していただけに、あたかも現場にいる感覚に陥りやすかったのだろう。

 だから、被災している方たちを見るだけで涙が出てしまったり、余震が起きるたびに「怖いだろうなぁ」と心配になったり、被災しながらも明るく振舞う人たちを見るたびに胸が締め付けられた。

……
 人間は何らかのストレスを感じると、その状態から脱するための対処行動を本能的に探る動物である。その対処行動は、大きく2つに分けられる。1つは、へこんだ気持ちを元に戻す対処(ストレスへの対処)。もう1つは、ストレスの原因となっている問題を解決する対処(ストレッサーへの対処)である。

 ストレス状態から抜け出すには、2段階のステップを踏むのが効果的である。
……
まずはへこんだ気持ちを元に戻す。へこんだ気持ちを元に戻すとは、俗に言うストレス発散である。……ストレスに対峙するには、まずは、へこんだ気持ちを元に戻し、次に問題解決に向かうことが肝心である。遭遇しているストレスが大きければ大きいほど、へこんだ気持ちを元に戻さなくてはならない。……そして、気持ちが元に戻ったところで、問題解決に向けて、「自分はいったい何にストレスを感じているのか?」と何度も内省し、ストレスの原因を明確にするといい。

……
へこんだ気持ちを元に戻してから、「できること」を考える。
……で、先週末、思い切って遠出をし、やっとストレス発散ができて、ネガティブスパイラルから脱却できた。やっと、本当にやっと、まずは自分のために、自分のことをしっかりやって、そのうえで被災した方々のために自分なりにできることをしっかりやっていこうと、心から前向きに考えられるようになった。

……確かに、日常というのは代わり映えしないことの繰り返しである。毎日、毎日、同じことの繰り返しで、「刺激がないなぁ」と退屈したりもする。

 だが、この繰り返しこそが、刺激的なことや、真新しいことを受け入れる、土台となる。

 もともと人間は生物学的に、周期性、規則性のある行動を好む傾向がある。だから、起きる時間から消灯の時間まで、1日のリズムがあることは肉体的にも精神的にも安定する。同時に、2人以上のメンバーを巻き込んだ日々の反復性のある行動は、ルーティンと呼ばれ、人間が自己の存在意義を確認するための基盤になる。

 避難所の方が、「前とは全く違うけれど、今の日常にホッとしている」と語ったのも、リズムと自分の存在意義を確認できたことによるものだろう。そして、恐らく、日常の“やらなくてはいけない”仕事をひたすらやっている間だけは、ほんの少しだけ気が休まったのではないだろうか。

……
 当たり前のことを当たり前にやっている家族は、ストレスに強いことが、多くの実証研究で示されているのだ。

 当たり前のこととは、すなわちルーティンである。

 「おはよう」「おかえり」「行ってらっしゃい」と互いに言い合う習慣。食事の時間がだいたい決まっていること。週末はできる限り家族で食事をする習慣。加えて、父親、母親、子供、それぞれのやるべき家族内の役割がだいたい決まっている――。

 これらはいずれも決して特別なことではなく、ごく当たり前の日常である。

 このような当たり前のルーティンのある家庭の子供は、社会性や自律性が育まれやすく、学校などでも積極的に参加する傾向が強まったり、家庭だけでなく学校への帰属意識も高く、メンタルも良好であると報告されている。

……
そんな人間にとって大切な日常なのだが、日常の行為は、当たり前すぎて記憶に残りづらい。一方、非日常の出来事は、極めて刺激的であるため、鮮明な記憶として残り、それは『大切な出来事』として、何度でも思い出される。

……
 だが、そんな思い出せない記憶であっても、それは『思い出せない記憶』として確実に記憶の箱に刻まれる。

 この思い出せない記憶こそが、人間の価値観を養い、生きる力の基盤を育んでいくのである。あまり上手な例えではないかもしれないが、ルーティンというのは、“心の筋トレ”のような側面を持ち合わせているのだろう。

……
さて、そんな大切な日常が戻ったことにホッとする一方で、「日常が戻れば、みんな被災地の方たちのことなんか忘れちゃうんでしょうね」と嘆く人もいる。

 私自身も、「みんな忘れやしないか」と懸念している。いや、それだけじゃない。正直に言おう。私自身も、「忘れてしまうんじゃないか」と心配なのだ。

 今は、「被災した方と、共に生きよう」と心から思っているのに。今は、こんなにも思いを寄せているのに。何ともややこしいのだが、これだけ日常の大切さが分かっても、ここでまた感情が割れてしまうのだ。

……
こんな言い方をすると誤解されてしまうかもしれないが、つまり、たとえ忘れてしまうことがあっても、被災地の方たちに寄り添い続けることはできると思うのだ。何も難しいことはない。今ある“気持ち”を日常に組み込めばいいだけだ。

 今回の震災が発生して以来、内省し続けた、「自分にできる」こと、「自分にも、これだったらできると思えた」こと。そんな出来事を、取り戻した日常に加えてみればいい。

……
日常になれば、何も考えなくても身体が動く。日常になれば、当たり前のこととして続けられる。そして、何よりも、そのルーティンをこなす瞬間には、確実に被災した方たちにココロを寄せることができる。“今”ある気持ちが、この先もずっと繰り返されることになる。

 自分にできる範囲の繰り返しを、1人でも多くの人が、1社でも多くの企業が、1つでも多くの組織が持てれば、それが長い復興への支援となるのではないか。

 被害の大きかった東北3県の方たちにも恐らく今後、新たな日常が始まるのだと思う。

 だが、その日常は、私たちが想像できないほど、しんどく、険しい日常になるに違いない。だからこそ、その道のりが少しでも楽になるように、苦しい日常を少しでも共に歩けるように、私たちの日常に新たなルーティンを加えればいい。本当の支援のスタートにすればいい。

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