ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

日本'11(その1)

 この夏の日本での思い出を、順不同に書いていきます。まだ時差ぼけでぼや〜んとしているので、つらつらっと書けるものから…

 第一弾は鶴岡に行ったときのこと。藤沢から東海道線で横浜に出て、そこから京急で羽田へ。私は84年にカリフォルニアへ行ったのが羽田からだったので、その時以来。見違えるほどきれいになっていてびっくり。羽田から庄内空港まではわずか1時間。庄内では父と父の奥さんが出迎えてくれて、そのまま、庄内一美味しいというお蕎麦屋さんへ連れて行ってもらった。
 庄内地方で麺類というと、「麦切り」が有名らしい。(以前、山形のakiさんからだだちゃ豆入りの麦切りをお土産にもらったことがありました!)麦切りとは、小麦粉をこねて包丁で切った、平べったいコシの強いうどんみたいなもの。これをそば粉で作ればそば切りと言うらしい。で、こちらでも麦切りとそば切りをいただいた。本当にコシが強くて、美味でした。
 それからいったん父の家に行き、ひと息ついてから、映画「デンデラ」を鑑賞に行った。「姥捨山には、続きがあった」というコピーで、姥捨山に捨てられた老女たちが生き残って、コミュニティーを作る、そして、村への復讐をはかろうとする…というコワイお話。出演は浅丘ルリ子草笛光子、倍賞美津子、山本陽子らといった、懐かしい女優さんたち。実年齢も60代後半から70代の彼女たちは、いくらおばあさんのメイクをしていても(しわやシミは、メイクだったと思う!)やっぱりきれい。倍賞美津子なんか、ぜったい睫毛カールして、マスカラつけてたと思う。(その意味では、違和感。)でも、その美しさ以上に驚いたのは、彼女たちのスタミナ。深い雪の山の中でのロケで、あの年齢の女性たちが蓑を着て雪の上を走り回っているのですよ。草笛光子なんて、うちの母より年上なのに、ものすごく元気。迫力だった。
映画のあとは、鶴岡カトリック教会で「黒いマリア像」を見て、それから民家を改装して作ったというしゃれた雰囲気の喫茶店で一休み。


 ここの喫茶店では、メニューにあるものすべてに女性の名前がつけられており、なんと筆頭のブレンドコーヒーの名前が「佐知」。びっくりしてそれを頼んでしまった。喫茶店を後にすると、金峰山のほうまでちょっとドライブ。私は山は詳しくないけれど、月山とか、ぼぼるパパが好きそうな山が遠くにたくさん見えた。
 ドライブのあとは食事に。和食をいただきました。お部屋はこんな感じの正座をしないでいい和室だったので助かった。食事をしながら、他愛のない話しから原発のことなど、いろいろ3人で語らい。貴重な時間だった。父はもう、耳も聞こえにくくなっているし、目も失明寸前らしいし(白内障)、声もかすれて小さくなっているし、動きもゆっくりだし、ふだんツイッターなどでやり取りしている分には、少しも変わっていないように思ったけれど、やっぱり会うと、年を取ったのを実感する。来年は喜寿。まだまだ元気でいてほしい。
 父は膨大な蔵書を持っていたのだけれど、いかんせん目が悪いので、そのままではもはや読めない。それでいわゆる「自炊」をして、持っていた和書はほぼすべでデジタル化したらしい。これならiPadで字を大きくして読むことができる。父は、「個人での自炊量は、自分がたぶん日本一だろう」と自慢していた。(笑)
 帰宅した後は、父のお付き合いで「マッコリ」という韓国のお酒をいただいた。私はふだんお酒は飲まないけれど、お酒好きの父につき合って一緒にグラスを傾けるのは、今の私にできる最大限の親孝行。
 さて、食べ物の写真もたくさんあるのだけれど、今日は省略。その代わりと言ってはナンですが、十年以上前、父がシカゴに来たときの(ウェブ)日記があるので、それを自分の記録用に、ここに転記しておきます。

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10/12/1999

 父は土曜日の午後シカゴに到着し、すぐにカナダに向かうため今朝6時過ぎに去っていった。正味一日半の短い滞在だった。

 会わないでいれば、顔を見なくてもどうってことないのだけれど、会ってしまうと名残惜しくてしようがない。今回は3年ぶりだったけど、また数年は会えないのだろうか・・・
 時差ボケが幸いして朝早くに目が覚めた父は、教会へも快く同伴してくれた。
 彼がシカゴの私たちを訪ねて来たのはこれが3度めだけれど、教会へ来てくれたのも3度めかもしれない。アメリカに暮らす外国人の私たちが、地方教会にしっかり根付いているのは結構なことだと思っているらしく、父が教会へ行くのも娘夫婦が普段お世話になっている方たちにご挨拶にいくため、くらいに割り切っているのかもしれない。

 アメリカやカナダの大学で教鞭をとっていたこともある父は、英語には不自由しない。
 奇しくも昨日の礼拝メッセージは箴言16章25節より、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
 彼のように自分で選んだ道をまっしぐらに生きて来た人にはチャレンジングなメッセージだったかもしれない。(礼拝中に居眠りさえしていなければ・・・ 朝5時過ぎに目覚めてしまったらしいので、礼拝の最中は多分眠かったはずなのだ。f(^_^;; )
  
 メッセージの終わりに救いの招きがあった。 何人かの人が手を挙げた。しかし父は動かない。たまらなくなって私は父の耳元でささやいた。
 「お父さん、お願い! イエス様を受け入れて!いざというときに天国に行けるように、イエス様を受け入れて!」 こんな強引な伝道(?)の仕方なんて聞いたことがないが、私にはあまりチャンスがないのだもの。私と一緒に神様の宮にいるうちに、なんとかしたかったのだもの!

 父はにっこり微笑んで、うんうん、と黙って何度か頷いた。でも手を挙げようとはしない。
 そのうちに牧師が「今、手を挙げた人たちは、前に出てきて一緒にお祈りしましょう。」
 私はたまらなくなって言った。「お願い! 私と一緒に前に出て! 前に出て、牧師さんにお祈りしてもらって!」 
 すると父は「じゃあそうしようか」そういって立ち上がった。これでは自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主として受け入れたことにはならないということは、よぉく承知している。それでも、それでも何とかしたかった・・・

 父と二人で教壇の前に立って祈りながら、涙がただ溢れた。不思議なもので、父の私に対する愛情を痛いほど感じたのだ。私はきっといくつになっても、父にとっては変わらぬ「Little Girl」なのだろう・・・。 泣いて懇願する私の気持ちに答えるために、父は前に出てきてくれたのだろう。子供の頃から受け損なっていたと思っていた父の愛情が、100倍になって返って来たかのような、そんな気がした。 そして、心の底から父の救いのために祈った。

 その後、父とは特に福音についての話しはしなかった。 

 今朝、6時過ぎに父をオヘア空港行きのシャトルバスの乗り場まで送っていった。
 父はバスに乗り込み、外で手を振っている私の方を振り返り、うんうんと頷いて手を振り返した。
 夜が白々と明けていく。 薄ら明りの中で手を振る私と頷く父。

 25年前と同じだ。

 私が小学生の頃、父は週末しか自宅には帰らなかった。土曜日の夕方にもどり、日曜日の夜、東京に帰っていく。母と私と妹は、坂道をのぼって第4バス停まで父を見送りに行ったものだった。

 日曜日の夜なので、ガラガラのバスが来る。父が乗り込む。バスの一番後ろの座席に座り、振り返って私たちに手をふる。私と妹も手をふる。バスが見えなくなるまで一生懸命手をふる。父もずっと後ろを振り返ったまま頷いている・・・

 25年前と、同じだ。

 あぁ主よ、どうか父を救って下さい。



 はちこと父。2011年7月。鶴岡にて。

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