ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

追記

 昨日の記事への追記です。ゴリさんのコメントに対するお返事として書いたものを、追記としてこちらにも記しておきます。

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追記:The King Jesus Gospelで著者マクナイトが論じていることのエッセンスは、小嶋先生がまとめてくださっているのでそちらもご参照していただきたいのですが、このページだけをご覧になる人にもあらましがわかるように、コメント欄に書いたことを、ここにも付記しておきます。(ちょっと日本語がおかしいですが…汗)

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ゴリさん、
コメントありがとうございます! ゴリさんご夫妻は、すでにこの道を歩んでおられますよね!
以下は、FBでご主人のところにコメントしたものですが、こちらでもシェアしますね。
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マクナイト教授の問題提起は、教会の中で長らく語られてきた「福音」は、「救い」に強調が置かれ過ぎて、教会という場が「救われた人たちのクラブ」になってしまった。「福音」がいわゆる「神の救いのご計画」と入れ替わってしまった。そのため「伝道」というと、いわゆる「4つの法則」のように「あなたの罪のためにイエスは十字架にかけられ、死なれ、よみがえられました。この方を救い主と信じるならあなたは天国に行けます」「信仰義認(信じるだけで救われます)」といったものに薄められ、人に「決心」を迫るだけのものになってしまった…。しかし本来聖書に提示されている福音は、イスラエルのストーリーの成就としてのイエスのストーリーであり、全被造物の回復の希望にまで及ぶ壮大なもの。その中でイエスに従う人たちがイエスの弟子として生きていくよう導くもの。そのように教会がフレームワークを据え直す必要がある…という感じでしょうか。
「神の救いのご計画」が間違っていたとか、そういうことではないのですが、それは「福音」の一部だけだった、ということらしいです。
NTライトを読んできた人にとっては、何ら新しい主張ではないのでしょうが、マクナイトが改めて分かりやすい言葉ではっきり言語化してくれて、ハッとさせられるものがあります。
ウィラードも前書きを寄せていて、彼が「心の刷新」で語っていた問題提起とも重なる部分があります。
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確かに自分の信仰生活を振り返ったとき、「救いの確信」とか、「神様と自分の個人的な愛の関係」とか、すごくそういうことに強調が置かれていたなぁと思います。それはそれで何ら悪いことではなかったと思うし、これまでの自分の歩みの中で間違いなく大切なことでした。でも、この5〜10年くらい、神様は私の土台を広げようとなさっておられたようで、あちこち掘り起こされたり、削られたりしている部分があり、特にこの数年は、uneasyに感じることが多々ありました。(ゴリさんご夫妻との出会いも、そのプロセスの中で神様が備えてくださったものだと思います!)掘り起こされたり削られたりする一方で、いろいろ新しいパーツも与えられ、でも、それらがどういうふうに組み合わさることになっているのか、今ひとつ見えていなかったのですが、それがここにきてようやく青写真が見えてきた、という感じです。
まだまだ旅路は続きますが、旅は道連れ。これからもよろしくお願いします!!^^

関連記事:2010年2月4日 Reflection: このエントリーでは、2008年7月の記事にまでさかのぼっています。

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