ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Steve JobsとCulture Maker

 昨日の夕方、シカゴ時間の午後6時40分頃、外出から戻ってきたちょうどその時、二階でま〜やが、「〜〜died!」と叫んできたのが聞こえてきた。「どうしたの?誰か知ってる人が亡くなったの?」と階段に向かって訊ねたら、「スティーブ・ジョブズが!」と。
 驚いた。8月にアップル社のCEOを退任したのは、これからゆっくり膵臓ガンの治療に専念するためだろうと思っていたのに、実はここまで病状が悪化していたからだったのか?と。

 カリフォルニア大学留学中、1984年に最初のマックが出たときに、大学があの箱だけのマック(写真右上)を大量に購入し、文科系の学生のための「マックラボ」を設立した。理系の学生が使うのは「メインフレーム」と呼ばれる、DOSの、画面が真っ黒なやつで、文系の学生には敷居が高かったが、マックラボのおかげで、私のような機械音痴でもパソコンに触れることを学んだ。そして、「文系のためのマックでするプログラミング」という授業もとり、Pascalを学んだ。マックの親しみやすさのおかげで、感謝祭の休暇中もコーヒーのマグ片手にマックラボに入り浸り、この授業ではAをいただいた。
 そして私が最初に購入したパソコンは1987年のマックSE。あの当時は、まだ「ラップトップ」のパソコンなんてものもなかったが、これは私にとって十分ポータブルで、寮の自室と大学の研究室、そして当時交際中だった夫のアパートを、このマックを抱えて行き来していた。博士論文はこのマックを使い、WriteNowで書いた。以来、私はずっとマックユーザーだ。
 ジョブズの業績については、私が書くまでもないので省略するが、彼がこの25年の間にこの世に次々を生み出してきたものの恩恵を被っていない人は、あまりいないのではないだろうか。私のように特にITな人でなくとも、ジョブズの急逝の知らせには強く揺さぶられた。ケンでさえ、しょんぼりしていた。自宅のガレージで立ち上げた会社が短期間でここまで世の中にインパクトを与えるようになったことは、現代の伝説だ。製品だけでなく、ジョブズのヴィジョナリーとしてのリーダーシップは、多くの人をインスパイアしただろう。
 ジョブズの急逝の知らせにこんなに大勢の人が悲しみを受けているのは、それだけ彼の働きが文化に貢献してきたからだと思う。
 そんなことを考えていた矢先、アンディ・クラウチが今年の1月に書いた記事、The Gospel of Steve Jobsを読んだ。考えさせられた。
 クラウチは、ジョブズが生み出した数々のものが、いかに人々に「希望」を与えていたか、それはまさに、世俗の福音とも呼べるものだったと指摘していた。(意図的なものかわからないけれど、アップル社の初期のロゴは、一口かじられたリンゴに虹がかかったものだった。)
 アップルから新製品が出るたびに、人々は注目し、興奮し、喜んだ。新製品を購入し、一時的には満足した。しかしながら、どんな新製品が出ても、しばらくすると、次の新製品が待たれるようになる。イエスが与えてくださる、一度飲むなら二度と渇かなくなる水とは逆に、アップルの新製品をいくら手に入れても、人々は決して満たされなかった。もちろんこれは、アップルやジョブズの問題ではなく、人間の心の問題なのだけれど。つまり、ジョブズが人の目にはどれだけ賞賛に値しようとも、彼の業績は、人間の根源的な問題に無意識のうちにも加担することはあれ、解決することはなかったのだ。
 私は、ジョブズがこの25年で成し遂げてくれたことに心から感謝している。それを否定するものではまったくない。マックや、各種アップル製品のない世界、ピクサー映画のない世界なんて、つまらないと思うから。そして、この世に、第二、第三のジョブズが登場してくれたらいいなとも思う。わくわくするような新製品は、やっぱり私たちの生活に色を添えてくれる。

 アンディ・クラウチは、著書"Culture Making"の中で、キリスト者はこの世の文化をただ非難したり批判したり、真似したり、消費するだけでなく、むしろ率先して文化を造っていくべきだと論じた。
 ティム・ケラーは、イスラエルがエルサレムを首都としたとき、神はシオンに宮を建てるように命じたことを指摘している。シオンはエルサレム市内にある高台で、そこは街中の人から見える場所なのだ。「高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都」(詩篇48:2)。キリスト者が造り出す町、文化は、本来、自己の栄光ではなく、他者への奉仕に基礎を置き、その文化的豊かさは、「全地の喜び」であり神の栄誉となるはずのものだとケラーは言う。


 奇しくも、ジョブズはこの時代のCulture Makerだった。しかし、本来その役割は、キリスト者も担うべきものなのだろう。もちろん、キリスト者じゃない人の生む文化には価値がないと言うのでなく。
 アンディ・クラウチの記事を読んだら、ちょうど今私が学び中のこととも関連して、キリスト者も召されているCulture Makerとしての役割とか、そんなことにも思いが至ったので、ちょっとメモしてみた。話が随分とんじゃったけど。まとまっていませんが、メモなのでご容赦を。

追記:アンディ・クラウチが、ウォールストリート・ジャーナル紙からの依頼で、上記のThe Gospel of Steve Jobsをさらにふくらませた記事を書いたそうです。こちら。 

 この記事を最後まで読んで気づいた。アンディ・クラウチって、いつの間にかクリスティアニティ・トゥデイ誌のEditor-at-large(総合監修者)になっていたのね。知らなかった。

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