ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Dr. Waltonのセミナー

 今日は、朝8時から午後3時まで、教会でウィートン大学の旧約聖書学者、ジョン・ウォルトン博士の創世記1章の解釈に関するセミナーがあった。ウォルトン博士は、以前このブログでも紹介したことのあるThe Lost World of Genesis Oneの著者。今日のセミナーも、この本で語られていることが中心だった。

 博士はまず、聖書解釈(Hermeneutics)と、コミュニケーションの仕方、聖書の権威、聖書解釈における「Literal interpretation(字義通りの解釈)」の意味などについて語られた。特に、聖書のテキストを解釈するにあたり、聖書の本来の読者である古代ヘブル人の文化や世界観を知っておくことの大切さ、テキストの意図に忠実に読むことを強調しておられた。(メモ:Hermeneutical realism, implied author, implied audience, competence of author and reader, ethical reading, virtuous reading)
 聖書解釈における字義通りの解釈とは、聖書テキストのジャンル、文化・時代的背景、そのテキストの"focus of revelation"を念頭に入れて読むこと。
 また、科学的に自然の因果関係が説明できるからといって、そこに神がかかわっていないという意味ではないことも、強調していた。
 ここまで、約2時間かけて説明があったあと(話しが上手なので全然飽きなかったけど)これらのことを踏まえて、いよいよ本題の創世記1章の解釈へ…
 彼のポイントは大きく分けて次の二つ。
(1)創世記1章の神による六日間の創造の記述は、この宇宙の物質的(material)な起源に関するものではなく、この宇宙の機能的(functional)な起源に関するものである。
 「創造した(create)」と訳されるヘブル語の「bara」は、旧約聖書では約50回でてくるが、この言葉は、baraする主体が神である場合のみに用いられる。神がbaraするものは、物質とは限らず、抽象概念(清さなど)や現象(風、炎、災害など)をbaraされる場合もある。古代では、「存在」とは、それを構成する物質によって定義されるのではなく、その機能によって定義される。
 創造の最初の三日間では、神は、この地上での人間の生活基盤となるべきもの、すなわち時間(1日目)、気象(二日目)、食物(三日目)に関する秩序をお与えになった。ここに登場する物質そのものも、神様がどこかの時点でお造りになられたはずだが、創世記1章のこの箇所で神様が言わんとしているのは、これらの物質に神様が付与した「機能」に関する秩序を神が最初に創造した、ということであると。
 例えば、「光」とは、私たちは通常「物質」とは考えないけれど、物理学的には粒子なので、物質と言える。1日めに神様が「光よあれ」とおっしゃったとき、神様はその時に光の粒子を作られたという意味ではなく、すでに創造しておられた光の粒子に、闇と区別をつけるという「機能」をお与えになり、それを「昼」、そして闇は「夜」と名付け、「夕があり朝がある」という時間の秩序をお造りになられた…
 創造の四日目から六日目めは、最初の三日間で設定された機能の担い手(functionaries)が設定される。四日目には太陽と月と星が造られ、「昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て」と言われる。(ちなみに、この時代の「季節」とは、今日でいう四季ではなく、種蒔きの時期とか収穫の時期とかいう「季節」。)五日目には地上のそれぞれの場所を満たすべき生き物が創造される。彼らの機能は、生んで、増えて、地や水や空を満たすこと。六日目には、人間を含む、さらなる生き物が創造される。ここで定められる機能は、「地を満たす」ために「種類に従って」増えること。人間にはさらに、「地を従える」という機能が定められる。

 ウォルトン博士の二つめのポイントは七日目に関する。
(2)神はこの宇宙をご自身が住まわれる「宇宙的神殿(cosmic temple)」として創造された。七日目の休息とは、神がその神殿に入られたことを意味する。神が神殿でなさることは、この世を支配し、治めること。ここでいう休息とは、神が定められた秩序と支配の完成に伴うもの。ただ仕事をしないとか、昼寝をするとか、リラックスするという意味ではない。神が神殿におられるとは、この世が神のご支配のもとにあるということ。
 (従って、私たちにとっての安息日も、日々の生活の中で自分が握ってしまっていたさまざまな支配を手放して、もう一度この世、また自分の人生における主の支配を認める日、と言える。それを認めるからこそ、安息できる。)

 ほかにもいろいろあったけれど、今日はとりあえずここまで。今日記したことは、基本的に本の内容とだぶるけれど、このセミナーに参加したことで、やはり本から得る以上のものを得ることができた。それについては、また後日。

 なお、YouTubeにウォルトン博士のインタビューと、どこかで博士がこのトピックで講演したときの音声がアップされているので、リンクします。



(6パートのうちの最初の部分)

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