ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

「思春期・反抗期」と境界線

 22日の記事に、kahanaさんから、「わたしの教会では『聖書には思春期はありません。両親は思春期だからと子供を特別扱いしないように』と言っています。この牧師の言葉で、多くの親は自信を失くしたようでした。…」というコメントをいただきました。
 実は私自身、まだエミが小さかった頃、ある牧師夫人が書いた育児書に、「聖書に反抗期はない」とあるのを見て、「そうか!そうなんだ! 心理学が反抗期があると言うからと言って、それを真に受ける必要はない!子供の反抗を許しちゃいけない!」と思っていた時期がありました。(もしかしたら、私のかつての「鬼母」ぶりは、そういった考えによって自分を正当化していた部分もあったかもしれません…)
 また、話が長くなるので詳細は割愛しますが、それとほぼ時を同じくして、私は心理学を聖書に対抗する世的な学問と見なし、毛嫌いしていた時期もありました。(長い間心理学を学んでいたのに!)けれども、Boundaries with Kids(『聖書に学ぶ子育てコーチング』あめんどう)や『バウンダリーズ』(地引網出版)に出会ったことで、私の中で、神様の原則、聖書の権威のもとで心理学を再評価することができ、この件に関する心の平安を取り戻しました。(主に感謝します!)
 そういったこともあり、「聖書には思春期はありません。両親は思春期だからと子供を特別扱いしないように」のような牧師さんの発言は、ちょっと気になったので、ここに私の考えを少し書きたいと思います。


 まず、聖書に「思春期」「反抗期」という言葉は確かにありませんが(「更年期」も「PMS」もありませんね!)、子供の発達段階において「思春期」と私たちが呼ぶ時期が存在するのは、厳然たる事実です。聖書にも、イエスさまの思春期の様子を垣間みれる記事があります。*1 
 ウィキペディアによると、「思春期」は、「人間が生殖器以外でも外形的性差が生じ、やがて生殖能力を持つようになり、心身ともに子供から大人に変化する時期のこと。医学的には『第二次性徴の始まりから成長の終わりまで』と定義されている」とあります。
 体の変化は誰の目にも明らかですから、それを否定する人はいないでしょう。でも、この時期の子供の心が不安定になりやすかったり、反抗的な態度をとることについては、それがあたかも躾不足や、子供のわがままであるかのように思われることが多いのではないでしょうか。しかし、この時期の子供の心が不安定になったり、大人の目からはありえないような行動や選択をしてしまう背景には、神経科学的な理由があるのです。脳の発達です。脳の発達は、12歳ぐらいまでに止まると以前は思われていましたが、近年の研究で、20代半ばくらいまでは続くことがわかっています。そして、脳のすべての部分が同じペースで発達するのでなく、異なる部分が異なるペースで発達するので、この時期の子供は、ある面においては大人並みのことができるかと思えば、別の面ではまったく幼稚だったりします。中でも、ティーンの脳は、計画、順序の決定、総合的判断、衝動の抑制、行動結果の予測等の高次機能をつかさどる部分が未発達なのだそうです。そのくせ、論理的思考をつかさどる部位は一足先に発達するそうで、どうりでこの年代の子供は、ろくな判断ができないくせに、口先では理屈をこねるわけです。(苦笑)
 もちろん脳の発達だけでなく、ホルモンバランスも崩れやすい時期ですから、この時期の子供は大変な内なる葛藤の中にいるわけです。自分がティーンだった頃を思い出しても、うなずけますよね。Boundaries with Teensという本の中で、著者のタウンゼント博士も、親はティーンの抱える葛藤に対して共感を示すべきだということを述べています。

 とはいえ、「両親は思春期だからと子供を特別扱いしないように」という牧師さんの言葉は、受け取り方によっては正しいとも言えるかもしれません。思春期だからといって、子供のやりたい放題にさせておくべきではないと、私も思います。また、この時期を通るのが生理的なことであるなら、親にはなすすべがない、というわけでもありません。この発達過程にある子供は、心身の仕組み上、自律しきれないので、親は自律を助けてあげるような形で介入してあげるのがいいと思います。それが、適切な境界線を引いてあげることです。22日の記事の中で、私がケンに「あなたとあなたの周囲の人を守るため」と言って三つの決まりを与えたのも、まさにそういうことでした。

 また、つい数日前に、次女みんとも似たような会話をしました。彼女の生活のある部分において、最近自制がうまく働いていないと感じられる部分があったので、そのことで彼女にコンフロントしました。(コンフロントと言っても、叱ったのでなく、率直にそのことを指摘した、という意味です。)

「お母さんはあなたのことを信頼しているよ。でも、お母さんが信頼しているからといって、あなたがいつでも賢明な選択ができると保証されるわけではないよね?」
「うん」
「あなたが自分の選択をうまくコントロールできなくて苦しんでいるらしいのを見ると、お母さんとしては、少し介入した方がいいかな?と思うのよ。それで提案なんだけど、これからは○○××にしてはどうかしら? これは、あなたの行動を制限(restrict)することが目的ではなく、あなたがより良い選択をしやすくするためよ(so that it will help you make a better choice)。」
「わかった。それが良いと思う!」

 境界線を引くことを、子供の自由を奪ったり行動をただ制限するためだけのものと考えるのでなく、子供がより良い選択をすることを助けてあげるものだと考えてください。境界線は、上手に提示するなら、子供の心に大きな安心感を与えるものだと思います。境界線の内側は、いわば子供にとっての安全地帯でもあるからです。この時期の子供は、年齢が上がるにしたがって、親の言うことを聞くだけでなく、自分で適切な選択をすることを学ばなくてはなりません。自分が何を欲しているのかを模索し、それをどのように実現させていくのかを学んでいく、自我確立期です。境界線は、親の期待や要求を突きつけて、それに従わせることではありません。それをするなら、子供は反抗するだけです。親はそういう存在だと思われてしまうと、子供は親の言うことにことごとく反抗するでしょう。自我確立期である思春期にある子どもが親に反抗するのは、親が子どもを抑えつけ、支配しようとからではないでしょうか。しかし子供が自我を確立させ、自律するのを手助けする方向で声をかけてあげるなら、子供は反抗はしません。親の言葉に耳を傾け、その上で自分で判断するようになります。結果として、親の考えとは異なるものを選ぶかもしれませんが、それは反抗ではありません。(ちなみに、この時期を「反抗期」と呼ぶと、親の側も子どもに対して戦闘態勢に入ってしまいそうなので、私は「反抗期」という言葉は使わず、「自我確立期」と呼ぶようにしています。そう考えるだけで、親も随分異なる心構えになれるのではないでしょうか。)

 みんとは、実は上記の会話のさらに数日前に、次のような会話もしていました。みんが学校から帰ってきて、お腹がすいたので冷凍のチキンポットパイを食べようかどうしようか、迷っていたときのことでした。「ううう〜!お母さん、どうしよう〜〜?」と唸っていたので、私が、「お母さんが『ダメ』と言えば、あなたは食べるのを止めるの?」と聞いたら、次のような返事が返ってきたのです。

みん「お母さんの仕事は、私たちに物事にはどういうconsequence(結果)があるかを教えることだよ。そして、私たちに選択の自由を与えること。」
私「そうね。そして、あなたの選択の結果はあなたに負わせること?」
みん「その通り!」
私「あなた、『バウンダリーズ』読んだの?」
みん「読んでないけど。でもそれがお父さんとお母さんがいつも私たちにしてることでしょ? しばらく前に、お父さんが私に何か言ったんだよねー。選択と自由と結果について。それが、すごく腑に落ちたの。(It suddenly clicked!) そう言われてみれば、お母さんがいつも言ってることも、していることも、その通りだったな〜って」

 このときは結局、みんはポットパイを食べました。(爆)あとでエクササイズするから、と言って。

 というわけで、思春期の子供には、その時期の子供ならではの対応の仕方があると思うのです。思春期を否定するのでなく、そういうアンバランスな時期にいることを親が認め、その上で適切な援助をしてあげたいと思います。

 ちなみに、みんとはその後、一緒に聖書を開いて申命記30章15〜20節を読みました。神様も私たちに選択肢を与え、それぞれの選択肢を選んだ場合の結果がどのようなものであるかを教え、さらにどちらの選択肢を選んだほうがいいのかまで、私たちに教えてくださっています。でも、実際にどちらを選ぶのかは、私たちに委ねられています。「『いのち』を選ぶ者でありたいね」と話しました。みんはVサインを出していました。(ほんとに分かってるのかな〜? 苦笑)

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*1:ルカ2章42〜52節、「イエスが十二歳になられたときも、…」から始まり、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」で終わる箇所、イエスさまが祭りの時期の人でごった返しているエルサレムで親とはぐれて、宮で教師たちと話しをしていたという、あの部分です。イエスさまの自我が発達し始め、ただ親の言うことを聞くだけでなく、自ら考えて行動し始めたのが見受けられます。母マリヤに対しても、結構生意気な返事をしていますよね。もちろん、その後ナザレに帰って両親に仕えたとありますから、さすがはイエスさまなのですが。

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