悪夢再び
まさかの悪夢再び。
でも、もはや、「なぜ」はもちろん「何のために」とさえ、問おうとは思わない。
ただこの目があの方を見つめ、この耳があの方の御声を聴き、この手があの方の御手を握りしめているならば、今はもう、それだけでいい。私に知るべきことがあるならば、時がくれば主ご自身が教えてくださると確信しているから。
夢なのか現実なのかわからないような、夕べのあの出来事の中で、それでも私の心を圧倒的に支配していた主の平安。敵は私に神を呪わせようとしていたのかもしれない。でも私は、昨日の午後2時頃、祈りの中でちょうどこう告白していたのだ。「状況が好転したときだけでなく、どん底に突き落とされたかのようなときでも、あなたに信頼し、あなたを賛美する者でありたいです」 それは、時間を越えてすべてをご存知の神様が、一足先に私の心にそのような思いを植えておいてくださったのかもしれない。
その12時間後、薄暗い某所の固いプラスチック製の椅子に座りながら、私は自分のその告白を思い出し、主に申し上げた。「主よ、私は今こそあなたを賛美します。あなたに信頼しています。目で見える状況には左右されません」
失うことは強い。自分で必死に守ろうとするものがないことは、強い。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、心から言えることは幸い。そして、心に迫ってきた御言葉は、God is able to do exceeding abundantly above all that we ask or think 神は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできるお方。その、神のexceeding abundanceを、私は今、このとき、心に深く感じている。今後何か思いがけない素晴らしく良いことが起こるだろうという期待ではなく、今、このとき、すでに心にいただいている。
神よ。私の心はゆるぎません。
私は歌い、
私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。
十弦の琴よ、竪琴よ。目をさませ。
私は暁をよびさましたい。
主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、
国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、
あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
神よ、あなたが天であがめられ、
あなたの栄光が全世界であがめられますように。
(詩篇108:1−5)