ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

困難に召される

 このところ…というか、一昨年くらいから示され、語られていることと関係があるのだけれど、御父は、ご自身に従う者たちを、あえて困難に召されることがあるように思える。

 例えば、最近のかきごおり先生のブログの中に、このようなくだりがあった。

そして、今日は「神の愛」の話。「『神が愛だ』った言うけど、私は自分の都合の良いように解釈しているんじゃないかと思う。いいことがあるとすぐ『神様が守ってくれた』って」・・・と。


なるほど、確かに、意外に多くの場所で「神様の愛」=「災いから守られる」「いいことがある」と思われているのかもしれません。だから、わたしたちは悲しいことがあると「神様が愛ならどうして?」となってしまいます。


でも、神様の愛は「困難の中でも共に歩もうとする愛」なんじゃないかと思います。(人間同士の愛もホントはそうだね。)そして、その神の愛の極致が十字架。どこまでも、わたしたちとともに歩もうとされた神の意志の結晶。そんな話をしました。

 何か良いことがあったり、「成功」したり、災いから守られたりすることを神様の「愛」と呼んだり、「祝福」とみなすこと、確かによくあると思う。実際、「良い」ことは神様からのものだと思うし、自分にとってありがたいことが起これば、感謝すべきだろうけれど、かきごおり先生がおっしゃるように、それだけが神様の愛や祝福ではないはず。

 シカゴのノースパーク大学という、神学校もあるクリスチャン大学の教授、スコット・マクナイト氏のブログをよく読んでいるのだけれど、今朝の記事に「預言的」であることと「慣習的」であることの違いについて書かれていた。
 新約聖書の時代から、宗教的指導者たちは、「慣習的」であることを良しとして、それを求めてきた。例えば、女性よりも男性、奴隷よりも自由、貧しいことよりも金持ちであること、弱者よりも強者、病人よりも健康であること、といった具合に…
 しかし、イエスさまのミニストリーは、そういった慣習をことごとく覆した。イエスさまのミニストリーは、慣習的には疎まれ、忌み嫌われる人々を受け入れ、抱き、言わば彼らの人間としての尊厳を回復することだった。(悪霊に憑かれていたり、病に冒されていることは、当時は社会的にもはじき出されることだった。)
 そして何より、人間にとって最大の災いと言えるであろう「十字架」を、ご自身の身に引き受けられた。これもまた、以前かきごおり先生が書いておられたことだけれど、「お前が神の子ならそこから降りて来い!」とあざけられ、ののしられ、唾を吐きかけられ、そんな忌み嫌われる場所に行くことを、良しとされたキリスト。そのキリストに倣うように召されている私たち。

 人の目には「災い」のように見えることがキリスト者の身にふりかかるとき、それは神様が私たちを、災いの中にいる人たちのところに行って、そこで神の愛を現す者となりなさいと、召しておられるのではないか… 最近、そんなことを考えている。
 3.11の震災後、福島第一バプテスト教会の佐藤彰先生も、「私たちの教会は、震災に遭遇するように神によって選ばれたのだと思う」というようなことをおっしゃっていた(こちらを参照)。災いが偶然ふりかかったのではなく、神様があえて福島第一バプテスト教会を選び、この状況を通ることによってしかできない方法で主の愛を世に証するために、召された…
 しばらく前に紹介したメジャーリーグの投手だったデイブ・ドラベッキーも、そんなふうに神様に召されたひとりだと思う。私は今、ドラベッキー夫妻がやっているEnduranceというミニストリーのメルマガを読んでいるが、苦しみを通った人だから語れる言葉の一つひとつに、とても励まされている。
 震災だとか、事故だとか、病だとか、そういういわゆる「災い」は、神様が目的を持って引き起こす、というわけではないだろうとは思う。むしろ、そういった「災い」自体はサタンの仕業だったり人間の罪の結果であったりするが、神様はそういうものさえもご自身の良い目的のために用いることができるのだろう。でも最近、「災い」のただ中におられる神様…みたいなことを考えている… つまり、災いが起こっちゃったあとから神様が介入されるのではなくて、災いが起こるとき、すでにそこに神様がおられるというか… だって、キリストは、災いや困難にすでに勝利しておられる方なのだもの。うまく表現できないのだけれど…
 そして、それと同時に、人間が災いや困難の中を通るのがどれほど辛く苦しく孤独なことであるのかは、誰よりもイエスさまご自身がご存知だから、いくら選ばれ、召されたとはいえ、その中を通るときの私たちのことは、神様は格別にケアしてくださる。格別に私たちに寄り添ってくださる。シャデラク、メシャク、アベデネゴたちと一緒に、燃える炉の中でキリストが共に輪になって歩いてくださったように。
 
3"You're blessed when you're at the end of your rope. With less of you there is more of God and his rule.

4"You're blessed when you feel you've lost what is most dear to you. Only then can you be embraced by the One most dear to you.

5"You're blessed when you're content with just who you are―no more, no less. That's the moment you find yourselves proud owners of everything that can't be bought.

6"You're blessed when you've worked up a good appetite for God. He's food and drink in the best meal you'll ever eat.

7"You're blessed when you care. At the moment of being 'care-full,' you find yourselves cared for.

8"You're blessed when you get your inside world―your mind and heart―put right. Then you can see God in the outside world.

9"You're blessed when you can show people how to cooperate instead of compete or fight. That's when you discover who you really are, and your place in God's family.

10"You're blessed when your commitment to God provokes persecution. The persecution drives you even deeper into God's kingdom.

11-12"Not only that―count yourselves blessed every time people put you down or throw you out or speak lies about you to discredit me. What it means is that the truth is too close for comfort and they are uncomfortable. You can be glad when that happens―give a cheer, even!―for though they don't like it, I do! And all heaven applauds. And know that you are in good company. My prophets and witnesses have always gotten into this kind of trouble. (マタイによる福音書5章3〜12節 メッセージバイブル訳)

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