ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Spiritual Direction2

 水曜日は、霊的形成パスターとの2度めのSpiritual Directionのセッションだった。本当は2週間前のはずだったのだけれど、日本に行ってしまったため、今週に。(一回目のときの記事はこちら。)
 Spiritual Directionを始めるとき、正直に言うとちょっと懐疑的な思いもあった。「点つなぎ」のようなものと言っても、理屈はわかるけど、そんなにうまくいくのかな?みたいな… しかもこのパスター、こう言っては失礼ですが、まだお若い。子育てに関しても、結婚生活に関しても、私より全然経験が少ない。約35年前に私が救われたとき、この人はまだ生まれてもいなかった。
 でも、今回のセッションで感じたのは、それがいいのかもしれない、ということ。彼には「私の経験では…」と語れるような経験談などあまりなく(?)、ただ私の話を聴くだけ。聴きながら、質問したり、「さっきの話と、今の話には、共通のテーマが流れているようですね」と、私も気づいていなかったことを、指摘してくれたり。そして、そこで現されるものは、本当に主の導きによるものなのだと、私も素直に受け取ることができる。
 今回の指摘の中で出てきたことの一つは、私が「Outcome」を気にしているということ。アウチ!と思った。アウトカム(「結果」)を手放し、主に委ねることについては、実は数年前から語られているのに…(このブログを「アウトカム」で検索すると、過去記事がいくつか出てきます…)でも、話していて、アウトカムを手放すということに関して、私が誤解をしていた、あるいは理解が曖昧な部分があったことが分かった。アウトカムを手放すとは、自分の中で目標やビジョンを持たない、という意味ではなく、そのときの状況で、主に示されていること、導かれていることに忠実であることを優先させ、その結果については心配しない、ということだと指摘された。そのへん、私の中でちょっと誤解や混乱があったことに気づいた。結果はどうなってもいい、というところがポイントなのではなく、今、私は主の導き、主の教え、主の原則に従う、主が教えてくださっている「義の道」だと分かっていることを選ぶ、という、そっちにポイントがあるということ。
 多分、私の混乱は、コンセクエンス(consequence)の概念でアウトカムを考えていたことにあるかもしれない。これらは、日本語に訳せばどちらも「結果、結末、成り行き」というような意味だけれど、コンセクエンスには、原因に対する結果、という、論理的というか、A を行なったからBになった、という関係がはっきりしていて、しかも、Aを行なう時点で、結果的にBになるということが、あらかじめある程度予想される。一方アウトカムは、もちろんAとBの間に関係はあるのだけれど、Aを行なう時点で、その結果はBになるだろうという論理的な結果は導き出せない。言わば、やってみなくちゃわからない結果、と言えるかも。バウンダリーズの考え方では、コンセクエンスを念頭に入れて行動することの重要性が強調される部分があるので(そして、それは確かに重要なことだけれど)、ついそういう方向に思考が向いていたけれど、私の中で、微妙な軌道修正がなされた。
 自分の行動のもたらす結果(コンセクエンス)を考えずに行動するのは、愚かであり、何も考えずに行動しておいて、「結果(アウトカム)は主に委ねます!」というのは、聖書の教えることではないと思う。コンセクエンスを考慮するのは大切だけれど(それも「知恵」のうちだと思うから)、でも、私たちが想定するコンセクエンスが、そもそも神様のことをあまり考えたものではない可能性もある。
 例えば、私たちが想定するコンセクエンスが「お金持ち」になる、ということであれば、「お金持ち」になれそうな行動を選び、なれそうにない行動は選ばないだろう。でも、神様が私たちに求めている行動は(例えば「正直であれ」とか)、必ずしも私たちが求めるコンセクエンスを生むものではないかもしれない。
 Courageousという映画で、ある男性が、上司から不正を行なうように求められる場面がある。命令に従って不正を行なうなら、昇進・昇給が待っているよ、と上司に言われる。その男性は貧しくて、やっと得られた職だったので(しかも神様の導きで得られた職だと思っていた)、それを失いたくはなかった。失ったら、家族をがっかりさせるのは分かっていた。それでも、彼は正直であることを選んだ。そのアウトカムは… なんとその上司は、正直な部下を求めていて、実はこれはテストだった。「おめでとう、私が求めていたのは君のような正直な男だ。ぜひ君にこのポジションについてもらいたい」と、結果的に彼は、昇進・昇給をもらった… この男性にとって、「正直である」ということは、「神の義が現される」というコンセクエンスを生むものだったので、人間的な目で見たときのアウトカムがどうなるかは分からなかったけれど、彼は「正直である」ことを選んだのだ。
 あーー、コンセクエンスを考えつつアウトカムを手放すって、そういうことなのかなぁーーと、セッションが終わったあとで、つらつらと考えたのでした。アウトカムを手放すと言うとき、そのときに付随するようなout of control感が、私にはなんとも抵抗があったのかな、と自分で気づいたけれど、こうやって考えてみると、そこには、「私は主の方法を選ぶ」という主体性は確固としてあり、決して「私は何でもいいです〜」というようなものではないのだ、と納得した。すみません、ひどくややこしくなってしまった。
 話をSpiritual Directionに戻すと、この日の会話は、本当に「点つなぎ」になっていたのに驚かされた。というのも、実はほんの10日前ほどだったか、私は、「Living in the Mess: The Problem With Outcome-Based Christianity」という記事を読んでいて、FBにもそれをリンクしていたのだ。この記事の内容が、今回パスターが指摘してくれたものと同じで、パスターに言われたとき、内心、「ああ〜、それ、ついこの前、私も語られていたばかりのことだった!何でちゃんと理解していなかったのか!」と思ったのですよ。
 アウトカムのこと以外にも、この日の会話でいくつか重要な示唆が与えられた。長くなるので詳しくは書かないが、メモしておくと、

  • 聖霊(Holy Spirit)」の働きのこと。
  • 結婚生活に関して、Boundaries in Marriageの翻訳で教えられていることとその実践について。

 日々の歩みの中で、また特に神様と祈りと御言葉を持って過ごす時間において、これらのことにさらにじっくり思いを巡らせ、主の御声に耳を傾けたいと思う。そして、語られることに対して、従順に、忠実に応答できますように。

 以下は、私のスピリチュアル・ディレクターであるパスターが、先週自分のブログで書いていたこと。

I had the privilege of spending time with my director yesterday and I find myself much more peaceful, focused, and balanced than I was prior to our meeting.

Why?

Because spiritual directors aren't there to tell you what to do, they're there to help you listen to the Holy Spirit.

Because spiritual directors are there to point out the obvious, which is obvious to everyone except you.

Because spiritual directors ask you the kind of questions that help you to risk where necessary in order to grow in the depth of your life with Christ.

Because spiritual directors and spiritual friends are invested in walking with you through the conversation, not just answering every question with definitive information.

Because spiritual directors engage the Scriptures with us in a way that compels us, challenges us, and enlivens us when we’re dead on our feet.

 主に感謝しつつ…

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