ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

レントに「心配」を手放す

 レントとは、灰の水曜日(Ash Wednesday)から復活祭前日までの40日間のことで、復活祭に至るまでの間、カトリック教会などではイエス様の受難を思いつつ、自らも特定の食物や活動などを節制する慣習がある。私自身は、レントのそういった節制の慣習に従ったことはなかったけれど、プロテスタントの友人の中にも、レントの期間中にコーヒーを飲まないとか、甘いものを食べないとか、テレビを見ないとか、やっている人はいた。そうやって、復活祭までの期間、自分を整えていくのだそうだ。
 今年も、私は別にレントだからといって特に何かを自粛しようと考えてはいなかったけれど、今朝、この記事を読み、とても語られるところがあった。

 この記事の著者も、レントの慣習を守る教会で育ったわけではなかったけれど、ここ数年、食べ物などを節制することを実践していたらしい。そして去年のレントで、今年は何を自粛しようか?と考え、「私が依存している、神様との関係を深めることの邪魔になっているものを示してください」と祈っていたとき、「心配(不安、気苦労)」を手放すということに思い至ったらしい。夫にそのように言うと、「レントっていうのは普通、自分の好きなものを手放すんじゃないのか?」と不思議がられたそうだ。確かに普通はそういうものなのだけれど、別に教会の慣習に従ってこれをしようとしているわけではないし、このことについて祈れば祈るほど、40日間「心配」を手放すということこそ、自分がすべきことだと強く感じるようになったそうだ。
 もともとそれほど心配性ではなかったつもりだったけれど、いざ「心配」を手放すことを実践し始めたら、生活のいたるところで、小さな心配や不安を数多く持っていることに気づいたそうだ。そしてそれが、自分でも気づかないうちに、自分のエネルギーを吸い取っていた…
 その年のレントが終わり、振り返って考えてみたとき、心配というのは、実は状況を自分でコントロールしようとする試みの現れであったと気づいたと著者は言う。自分のことだけでなく周囲のことについてまで、絶えず最悪の状況を想定し、それに対する対処法もあらかじめ考え、そうやって渡り歩いてきたけれど、実はそれは、神様だけが負えるはずの重荷を、自分で請け負っていたにすぎなかった。しかし、それを手放すことを学んだとき、深い平安と安堵に包まれた…

 これを読んで、ああ、私も同じだ…!と思った。私は特に家族に関することについて、母親として、主婦として、自分が責任を請け負い、何もかも滞りなくいつも準備万端であれるようにと思う気持ちが強かった。自分が関わっている仕事などについても、同様の責任を心の中で請け負って、自分で苦しくなってしまうこともあったと思う。
 先日のアウトカムの話といい、同じテーマで何度も語られるということは、神様は今、私に主に信頼してリラックスすることを学んでほしいと思っておられるのだろう… 
 そこで私も、今年のレントは、「心配を手放す」ということを実践してみようと思う。「心配」や「気苦労」に私を支配させることを許さず、一つひとつのことを、意識的に主の御手に委ねていこう。私の生活のあらゆる領域でーー主婦として母として、私が実際に責任を負っている領域でもーー王なるイエス様にその王座についていただくために。イエス様が十字架につかれたのは、私たちを囚われの身から解放するためだったのだから、イエス様の十字架と復活に思いを馳せつつ、日々の不安や気苦労を主に明け渡していくというのも、この期間にふさわしいことであるような気がする。(レントの本当の意味とはちょっと違うかもしれないけど!) 主はこの40日間、何を示してくださるだろうか。楽しみだ。

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