ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

ちょっと考えさせられたこと

先週、インターネット上でKony2012というビデオが突然の大ヒットとなった。ウガンダでは長年続いていた内乱があり、その反乱を主導していた神の抵抗軍(LRA)というグループのリーダー、ジョセフ・コニーを捕まえろ!というキャンペーンビデオだ。制作はインビジブル・チルドレンというアメリカの非営利団体。インビジブル・チルドレンは、約十年前に、ウガンダの子どもたちがLRAによって誘拐され、マインドコントロールされ、戦場に送られていることを世界に知らせるドキュメンタリーを制作した。このドキュメンタリーは、去年、みんが高校の授業の中で観て、ひどく心を揺さぶられ、社会正義について考えるきっかけになったものでもある。その団体がやっているのだから、よい働きなのだろうと最初は思ったものの、みんがいろいろ調べているうちに、インビジブル・チルドレンのやり方に問題があり、批判が持ち上がっていることがわかった。
 みんに教えてもらって私もいろんなビデオを観たり記事を読んだりしたところ、Kony2012はウガンダでの現状を極端に単純化し、事実とは異なる描写を用いながら見る人を感情的に煽動し、無力でどうしようもないアフリカの人たちを、アメリカが介入して助けてあげよう!みたいなトーンだったらしい。そもそも、このビデオが言っている反乱は、とっくに収束していて、LRAは今はウガンダにはいないそうだ。(こちら
 そのためウガンダ人のジャーナリストの口から、「このビデオはひどい!コニーが悪者で、正義のもとにさし出されるべきであるのは確かだけれど、アフリカの人々を無力な弱者のように描くような人たちに、私たちのストーリーを語ってほしくない!」という反論が出たり(こちら)、つい数日前にはKony2012のビデオの上映会をウガンダで行なったところ、それを観たウガンダの人たちは、インビジブル・チルドレンがあまりに勝手な話を作り上げていることに怒り、しまいにはスクリーンに向かって石を投げつけるなどの騒動になるほどだったらしい(ワシントンポストの記事、日本語でのニュース記事「ウガンダ反政府勢力の蛮行告発映画、「真実と違う」と地元民は猛反発」。)。
 この件で、いろいろ考えさせられてしまった。
 まず、「無力なあなたたちを、私たち(アメリカ)が教え、助けてあげよう」といういつものアメリカの上から目線の姿勢… アメリカ人は確かに、たぶん日本人にはなかなか真似できないくらいに、人助けのためなら犠牲を惜しまない人たちだと思う。それは本当に素晴らしいと思うし、いつも心から感謝している。アメリカ人のそういう姿勢は、この国の伝道の原動力にもなっていたと思う。アメリカ人のgenerosityやwillingnessには、私も個人的にも何度も助けられてきた。自分が助けを必要としているときはアメリカ人に頼り、自分の気に入らないことがあったら彼らを批判するような真似はしたくないのだけれど。ただ、自戒を込めて思うのは、これは伝道でも支援でもそうだと思うけれど、本当に他者を助けようと思うなら、本当に他者に寄り添おうと思うなら、もっともっと相手のことを知り、相手の目線から物事を見るようにしないと、本当の意味で助けることなどできないだろうということ。それどころか、逆に相手を傷つけることになってしまうかもしれない… もちろん、そうなるのは嫌だからと、問題があるのはわかっているのに見て見ぬふりをして、だんまりを決め込みたくもないけれど… 難しい。
 それから、近年、福音派クリスチャンの間でも、社会正義のことが頻繁に取り沙汰されるようになってきたけれど、社会正義の問題に関わっていくためには、その問題に関して自ら積極的に学ぶ姿勢を持たなくてはいけないだろうとも思わされた。Kony2012では、大勢の人たちがウガンダでの問題の深さや深刻さ、複雑さを考えることもなしに、あまりにも単純に流行に飛び乗るような形でビデオを広めていた(なにしろ、クリック一つでできてしまうのだから)。リック・ウォレンとか、うちの教会のシニアパスターとか、教会のリーダーの立場にある人たちでさえ、簡単に乗っかっていたのを見て、正直言って私は戸惑った。教会が真剣に社会正義の問題に取り組むつもりなら、そういうノリでやってほしくないと思った。と、他人事のように言っているけれど、私も自戒しなくては。とはいえ、社会正義に関わるような問題は、だいたい何でも深遠で、そう簡単に白黒はっきり決着のつくようなことではなかったり、いろいろな立場の人が関わっていたりして、専門家でない人が、情報を集めてすぐに事態を正確に多面的に把握できるようなことではないかもしれない。日本の原発問題もそうだろう。事態が複雑で分かりにくいために、感情論に乗りやすくなってしまうのだろうけれど、自分は専門家のような判断を下せるようにはなれないからといって、無関心になるのでなく、感情論に乗るのでもなく、クリスチャンとしてどういう姿勢で社会正義の問題に関わっていったらいいのか… 祈らされる。

 最後に、この一連のことについてちょっと調べているときに見つけた素敵なビデオを紹介します。

 日本語字幕のついているビデオもあるのですが、それは埋め込めなかったので、上のは英語のものです。字幕付きのものはこちらで。

我々の生活や文化は数々の話が重なり合って構成されています。作家のチママンダ・アディーチェは、どのように真の文化的声を探しだしたのかを語り、ある人間や国に対するたった一つの話を聴くだけでは、文化的な誤解を招く可能性があると指摘しています。

 最近は、福音を語ることも、「イエスのストーリーを語る」「イスラエルのストーリーを語る」「聖書のストーリーを語る」と言った表現をされることが多い。福音を伝えるために私たちはどんなストーリーを語るのか、そんなことにも思いを馳せる……

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