ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

スペース作り

 ヘンリ・ナウエンは、霊的修練とは神が私たちに働きかけることのできるスペースを作るための努力のことだと言った。修練の行為そのものが私たちを清めるとか、そういうことではなく、私たちのうちに「キリストが形造られる」(ガラテヤ4:19)よう、神様が働いてくださるためのスペースを作るために私たちの側で行うこと。私たちの心や思いは、放っておくとすぐに神以外のいろんなもの(思い煩いだったり、自己実現だったり、さまざまな耽溺だったり)で一杯になってしまい、神様に入ってきていただく余地がなくなってしまうから…

 うちの教会の霊的形成パスターは、そのための土台となる要素として、次の三つを挙げている。

  1. 休息:肉体を持つ存在として造られた私たちは、一日24時間のうちの約3分の1を睡眠にあててこそ、最もよく機能できるようにデザインされた。睡眠不足で疲れているときには、身体だけでなく、精神的にも感情的にも不安定になってしまうのは、誰でも経験済みだと思う。さらに、神様が私たちに安息日を守るよう言われたのは、身体や精神が必要とする休息をとるというだけでなく、私たちが被造世界全体における神様の支配と主権を認めるためでもあった。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。一週間のうちの一日だけでなく、毎日の生活の中に、定期的な「やめよ」の時間、すなわち睡眠をとることは、実は、最も基本的な霊的修練の一つ。
  2. 御言葉と祈り:「あ、やっぱり聖書読まなきゃダメ? 祈らなきゃダメ?」という声も聞こえてきそうだけれど… いえ、これらをしないと「ダメ」ということではなくて。この夏、エミを連れてうちの教会の霊的形成の入門(?)クラスのようなものに行ってきた。帰り道、「どうだった?」と聞くと、エミは、「う〜ん、すでに知ってることもたくさんあったけど… 要するに、私はもっと聖書を読んで祈らなくちゃダメなんだな。(I JUST HAVE TO read the Bible and pray more)」と答えた。I JUST HAVE TOと言ってしまうと、どうしても律法主義的、形式主義的に聞こえてしまうが、では「いや、別に読まなくていいのよ、祈らなくてもいいのよ」ということなのか、と言えば、それも違う。ある意味で、エミが言ったことは正しかった。確かに、もっと聖書を読んで祈る必要があり、それがなくては霊的形成は始まらない。しかし、「義務」としてではないのだ。読まなかったら神様が怒って私たちを罰するとか、何か悪いことが起こるとか、そういうことではない。そうではなくて、これは「いのち」の維持の問題。身体を維持するためには食事を摂らなくてはならない(HAVE TO eat)ように、主にあるいのちの維持のためには、私たちにはみことばと祈りが不可欠ということ。御言葉に親しむことによって、神様が私たちに語っておられる神のストーリーを知ること、そして祈りによって、神様と会話すること。一年間で聖書66巻を通読しなくてもいい。一日一章でもいいし、しばらく聖書を読まない日が続いたら、それでもうアウト、というものでもない。でも、「私たちのうちにキリストが形造られる」ために、神様に働いていただきたいなら、やはり御言葉と祈りは不可欠。
  3. ミッション(使命・宣教):最近、英語圏のクリスチャンの間では、「ミッショナル(missional)・宣教的」という言葉が大流行している感がある。でもこれは一過性の流行ではなくて、注目されるべくしてされているのだと思う。(参照:『神の宣教』クリストファー・ライト著)そもそも、神様が私たちのうちにキリストを形造ろうとされるのは、神の国の働きに私たちを招くため。私たちの内側でなされる神様の働きが、神の国の働きという形で外に流れ出るのでなければ、霊的いのちの動脈が詰まってしまうと、うちの霊的形成パスターは言う。以前、「霊的形成とは、他者のためにキリストに似た者に変えられていくプロセスである」というマルホーランドの定義をご紹介したことがあるが、この『他者のために』というアウトレットが、私たちの霊的形成には組み込まれているのだ。また、ミッションとは、単なる「働き」「手のわざ」ではなく、そのただ中に主がおられる場でもある。私たちが主に出会うのは、祭壇の前だけでない。貧しい人、しいたげられている人、捕われている人、失われている人たちのために私たちが御国の働きを行うとき、私たちはそこで主ご自身に出会う。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。

 「休息」や「御言葉と祈り」はわかるのだけれど、私としては、「ミッション」が霊的修練の一つとして掲げられているのが興味深いと思った。ここに、一つのパターン、リズムが見えてくる。働いて、休んで。吸って、はいて。伸びて、縮んで。満ちて、引いて。退いて、出ていって。これは、私たちのうちに脈打つ、キリストのいのちの鼓動なのかもしれない。(うちの霊的形成パスターは、これを「ジーザス・リズム」と呼ぶ。)働きっぱなし、伸びっぱなし、はきっぱなし、出ていきっぱなしでは、力尽き、燃え尽きてしまう。休むだけ、退くだけでは私たちの存在意義がわからなくなる。この両方がバランスよく、リズミカルに生活の中で繰り返されるとき、主は私たちをキリストに似たものに形造るために自由に働くことができ、それが外側にも自然に現されていくのかな。

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