ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

N.T. Wright & Scot McKnight

 火曜日のシカゴ大学での講演に続き、夕べは、ヒルトンシカゴでもたれた、何というのでしょうねあれは、まぁ、講演会のようなものに行ってきました。ちょうど今週末、シカゴで大きな聖書学会(Society of Biblical Literature)がもたれていて、それでN.T. Wrightもシカゴに滞在しているようです。その学会のイベントの一つなのかどうかわかりませんが、シカゴ在住の新約聖書学者スコット・マクナイトが自分の論文を発表し、それにN.T.ライトが応答する、という形式の発表会(?)があったのです。
 マクナイトの論文のトピックは、「教会と神の国」。一応一般向けイベントということでしたが、やはり内容は学術的で、一般信徒に教えるためのメッセージではなく、学者さん同士が意見をやり取りするような趣向のものでした。そういうわけで、私にはやや難しく、充分についていくことはできなかったのですが、覚えていることだけでも、メモしておきます。(以下は、How God Became King読書会でシェアしたものの転載です。)

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 マクナイトは、イエスが神の国と呼んでいたものと、パウロが教会(エクレシア)と呼んでいたものは、実は同じものを指すのではないか、という説を出しました。近年、「神の国」ばかりもてはやされ(?)、「教会」は、単なる制度であり命のないものであるかのように、すっかり隅に追いやられてしまったけれど、キリストを王とする人々の共同体を通してキリストの贖いの働きがなされる場、すなわち教会こそが、神の国ではないのか、と。そして、キリストを王としない人たちがいくらコモングッドのために働いても、それはKingdom workにはならない、Kingdom workは教会(エクレシア)だけができることだ、と。
 それに対してライトさんは、近年教会離れが進み、忘れられかけているから、もう一度elevateしようというマクナイトの趣旨はよくわかるが、教会と神の国は同列にはできない、と返答しておられました。(「神の国」とは神の統治を指す(denoteする)ことばであり、「教会」とは、人々を指すことばだから、そもそも次元が違う、と。)そして、教会だけがkingdom workをできる、という考えにも、真っ向から反対しておられました。
 マクナイトは、マザーテレサの働きはKingdom workだけれど、ガンジーの働きは違うと言い、ライトは、ツツ大司教とネルソン・マンデーラが南アフリカで共にアパルトヘイトという悪と戦ったことを引き合いに出しつつ、それに反対していました。
 また、王をたてるということについて聖書が述べていること、つまり1サムエル8章と2サムエル7章の間にあるテンションについてもライトさんは何度も語っていました。でも、残念ながら私には充分咀嚼しきれませんでした…
 それから、断片的で申し訳ないですが、ライトさんのことばの中で、もう一つ印象に残ったものを。
 「アブラハムにしてもモーセにしてもダビデにしても、問題の解決として神が立てた人物でありながら、同時に問題の一部にもなってしまうことを、神は最初から十分承知の上で、なおも彼らを立て、用いられたのだ」

 何と言いますか、ライトさんのことばには、この世に対する深い愛と慈しみを感じます。まさに、神様がご覧になっているような目で、ライトさんもこの世をご覧になっているのじゃないかな、と感じさせられるのですね… もう、個人的にも大ファンになってしまいました。

 右がマクナイト教授です。想像していたよりも精悍な感じで、お二人ともとっても素敵でした。

 ちなみに、なぜこんな写真しかないかと言うと、ぼぼるパパが良いカメラを持っていくと言っていたので私はiPadしか持っていかなかったのに、パパときたら、車の中にカメラを置いてきてしまったのでした! がっくし。



ツーショット、ではなくて、勝手に同じフレームにおさまって撮った写真。(笑)本にサインをしてもらったので、すっかり満足している私です。っていうか、恥ずかしいくらいのドヤ顔ですが… もうちょっと謙遜な顔はできないのか!<自分

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