ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

上沼先生「受肉と、幕屋と、」

 上沼先生の神学モノローグが配信されてきた。
 今年は、シカゴは暖冬のせいか、また年末に一時帰国を控えているせいか、12月に入ってもどうもアドベントという気がせず、充分に心をしずめてクリスマスの瞑想にひたることができずにいた。しかし今朝、上沼先生のこの記事を拝読しながら、この一年間の導きを振り返りながら、御子が肉を取って来てくださったこと、イスラエルの神がご自身のお約束のとおりに、メシアをこの地上に送ってくださったこと、そして今日の私に与えられているミッションに、思いをはせた。

御子の受肉は、幕屋の再現である。それで、神は、御子のうちにおられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導かれる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 神の民であることを示していく。

 このことばをうなずきつつ受け止め、噛み締めつつ…

 全文はこちら(上沼先生、いつもありがとうございます。)

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神学モノローグ

「受肉と、幕屋と、」2012年12月13日(木)

 ヨハネが キリストの誕生を語るときに、 他の福音書記者とは異なって一つの世界観をもって語っている。初めに神とともにあったことばが、「人となって(肉をとって)、私たちの間に住まされた」(1:14)という。「ことば」と言うことで、当時のギリシャ哲学の影響を伺わせるような表現である。それでも、神の世界に関わることが「肉をとる」というのは、二元的なギリシャ哲学とは相反するものである。

 さらに「私たちの間に住まわれた」とヨハネが言うときに、明らかにユダヤ教の世界を視点に入れている。「住まわれた」というのが出エジプトの際の幕屋に関わることなのである。チェーン式聖書でもこの箇所に説明を加えている。「『住まわれた』 幕屋を張られた。かつて幕屋のうちに認められた神の栄光が(出エジプト40:34,35)、今やイエスの体のうちに認められるようになった。」

 このことは一般によく言われていることであるが、受肉の背後に幕屋の思想があることが分かる。その繋がりをしっかりと見ていたのがヨハネの世界観であった。「ことば」でキリストを語ろうとしていることで、ギリシャ的な思想を伺わせるのであるが、むしろそれに相反するように、ユダヤ的な伝統のなかでメシアの到来を展開していることが分かる。

 出エジプト記の後半で、十戒と様々な戒めを語ったあとに、神は幕屋のことを事細かに語っている。正直どうしてこんなに細かに語る必要があるのかと思わされる。レビ記では、その幕屋の祭司の務めを同じように事細かに語っている。それだけ大切なのだと分かる。しかし、それらは祭儀律法として、新約ではその象徴的な意味だけが捉えられて、実質的な意味は終わったと教えられてきた。その結果、事細かに記述されている旧約聖書のこの部分をとばして読むことになる。そのようにして、聖書がすべて神のことばであるという立場を、実質的に無にすることになる。

 幕屋と祭司についての細かい戒めは、出エジプトの民が荒野の40年旅をして約束の地に至るために、欠かすことのできなかったことである。幕屋は、神が民のなかに住まい、神が民と出合い、神が民を導く場所であった。民は、幕屋を中心にして生活をし、移動し、他の民族に対して自分たちが神の民であることを示してきた。

 約束の地に入って、王国が立てられたときに、幕屋は、今度は神殿として築きあげられた。王国と神殿をどのように捉えたらよいのか迷うところである。その神殿が神の民の罪のためにバビロンによって滅ぼされ、神の民はバビロンに連れて行かれる。バビロン捕囚である。そこからの帰還と神殿再建がバビロンでの民の叫びとなった。何とか神殿は再建されるのであるが、幕屋で約束された神の臨在を求める叫びは、メシアの到来を願う信仰として何百年と続くのである。

 その待望のなかで、ヨハネはキリストの誕生を見ている。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」あの天幕で約束されたことが成就したのである。しかしそこには、神にそむいた民への神の深い悲しみがある。幕屋のことを語っている間に金の子牛を作って拝んだ神の民への神の怒りがあり、民の罪のために神殿がバビロンによって滅ぼさなければならなかった神の嘆きがある。キリストの受肉には、それが深く響いている。確かに救い主の誕生であるが、単に誕生日といって祝うことをためらわせるがある。

 それでもあの幕屋で示された神の栄光は(出エジプト40:34,35)、御子の誕生において神が幕屋を張ることで、間違うことなしに示された。ヨハネはそれを見たのである。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこと満ちておられた。」神の重い栄光は、神の悲しみの歴史のなかに長く潜行していて、時が至って闇の中に輝き出た。荘厳な出来事である。

 御子の受肉は、幕屋の再現である。それで、神は、御子のうちにおられ、御子において私たちと出合い、御子を通して私たちを導かれる。私たちは、御子を中心に生活し、 教会の徳を建て上げ、 神の民であることを示していく。

上沼昌雄記

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