ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

2012 Reflection(1)〜他者の祝福となるために〜

 日本行きをあさってに控え、やることが山積み。今日中に、King Jesus Gospelの原稿を最後までチェックして、編集者さんに送付したい。そして、明日はパッキング。まだまったく手をつけていない。買い物にも行かないと。あさって、出発の日は家を出るのが午後なので、午前中は、狂ったように(?)家の中を掃除することになりそう。
 今回の日本行きはいろいろ複雑で、先週の木曜日にエミが大学から戻り、昨日、一足先に、一人で日本に旅立った。今は、鎌倉の私の妹のところにいる。あさっては、私とま〜やとケンが出発。ま〜やはあさってが期末試験の最終日で、それが終わったらすぐに出かける、という感じ。一方みんは、明日まで期末試験があるために、こちらに戻って来れるのがあさって。でも、彼女の冬休みは1月末までなので、みんとぼぼるパパは24日にシカゴを出発して日本に行く。
 帰宅は、エミ、パパ、ま〜や、ケンが1月6日。ま〜やとケンは1月8日から新学期が始まる。エミは、戻ってきてから期末試験で、シカゴに到着したら、家には戻らず、飛行機を乗り継いでNJまで行く。遅めに日本に到着したみんは、1月9日まで日本。私もみんと一緒に9日まで日本に残る。
 そんなこんなで、ひどくバタバタしている。例年、世の中が慌ただしくしている12月、私はわりとリラックスしてのんびり過ごすようにしていたのだけれど、今年は日本行きと2冊の本の詰めが重なって、めずらしく大忙しになってしまった。

 例年ならもっと暮れも押し迫ってから、1年を振り返ってみるのだけれど、今年は、日本ではたぶんまともにネットにアクセスできないと思うので、簡単に今、振り返ってみたい。

 この一年間は、私の中で、何か、潮流が変わった年となった。去年、一昨年と、約2年間、いろいろ難しいことがあり、何かこう、井戸の底に沈んで穴を掘っているような、井戸の底で、自分の問題にまみれながら、神様とずっと対話しているような、そんな感じだったかと思う。しかし、実際に私の生活の中で起こっていることには辛いこともあったけれど、井戸の底で神様と過ごした時間は格別だった。そこにいたからこそ見えたこと、聞こえたこと、味わえたこと、たくさんあったと思う。この状態は、今年の秋ごろまで続いていたかもしれない。弱さや痛み、苦しみを受け入れ、包み込むこと、その中で主に出会い、また人に出会い、癒しを受け取り、また与えることをわずかながらも学んだように思う。
 その中で、今年、私の中で潮流が変わったと思えるようになったいちばんの要因は、昨年12月にスピリチュアル・ディレクションを受け始めたことだろう。ディレクターに毎月定期的に会うことで、立ち止まって振り返り、今神様は私の人生の中でどう働いておられるのか、ということに意識的に目を向けるようになったのは、非常に大きかった。このセッションを始めたとき、これは「点つなぎ」のようなものだと言われたのだけれど、セッションを重ねるうちに、ディレクターと話さなくても、自分で点をつなげられるようにもなってきた。少なくとも、かなり意識できるようになった。ディレクターと話すことだけでなく、礼拝のメッセージで、自分が翻訳している本の中で、あるいは自分が読んでいる本や、インターネット上で見かける記事や他の人の発言、家族や友人との関わり、世の中で起こっていること、ありとあらゆることを通して、神様が私に語りかけ、導いておられるのを、今まで以上にはっきりと意識できるようになった。
 その中でも、特に大きなテーマとして受け取ったのは、「私たちは、他者の祝福となるために召されている」ということ。
 「君は愛されるために生まれた」という歌があるけれど、もっと言うなら、「君は他者の祝福となるために生まれた」ということではないだろうか。もちろんそこには、「私たちは神のThe Beloved(愛されている者)である」、という前提があるのだけれど。愛されているところで終わるのでなく、その先があるのだ。
 昨日の礼拝メッセージの中で、パスターが「神の民は、自分のために選ばれるのではない。神の民は、神が愛するこの世界のために選ばれるのだ。神の民は、自分のためだけに祝福されるのではない。神の民は、彼らを通してこの世が祝福されるために、祝福されるのだ」と語っていたが、このことは、この一年間を通して、何度も示されたことだった。For the sake of others. In order to become a blessing to others. そもそも、アブラハムが召されたのも、この世を祝福するためだった(創世記18:18)。彼は、祝福となるために選ばれ、召された。その同じ役割が、イスラエルに継がれ、そして今、神の民とされた私たちにも継がれている。
 同じく昨日のメッセージで、「知恵とは、実生活の中で、何が最善で、最も建設的で、最も神に栄誉を帰し、いのちを豊かにする行動であるかを見極められることである」とも語られた。この知恵は、自分のために与えられるのでなく、他者の祝福となるために与えられるのだ。
 以前にも書いたが、キリストに似た者と変えられていく霊的形成の目的も、他者の祝福となるためだ。私たちに与えられているものはすべて、他者の祝福となるために用いるようにと与えられている、ということ。
 他者のために。他者の祝福となるために…
 
 (続きは明日)

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