ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

上沼先生の神学モノローグ

 今年第一号の上沼昌雄先生の神学モノローグです。上沼先生、いつも感謝します。

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神学モノローグ

「神の民への、神の取り扱いは、、、」2013年1月3日(木)

 この数年ユダヤ人哲学者レヴィナスの本を読み、また近年イギリスの新約学者N.T.ライトの一世紀のユダヤ教を中心に聖書全体を読み直していく作業に目を向けている。その結果、基本的には旧約聖書での神の民の神の取り扱いに思いが向いていく。エデンの園からの放出、出エジプト、バビロン捕囚へと向かう神の民の歩みと、そこにある神の計画と取り扱いである。さらに、ユダヤ人が今でもその延長の上に生きているという事実である。アウシュビッツをその流れで受け止めている神の民のしたたかさである。

 暮れから家族のクリスマスをシカゴでということで、長女の瞳宅にきている。ふたりとも風邪を引いてしまって5日ほど滞在を延ばした。そのゆえに、念願であったシカゴの北にあるホロコスト記念館を大晦日の日に訪ねることができた。シカゴの北にはニューヨークに次いでユダヤ人の多い地域である。1970年代にネオナチの行進がなされたことが契機になってこの記念館が建てられたと言う。

 昨年一年間国防省の仕事でアフガニスタンに行っていた次女の泉が、すでにワシントンで仕事を始めていている。ユダヤ人女性で戦後の日本国憲法の起草、特に男女平等の項目に関わったベアテ・シロタ・ゴードンという方が89歳で暮れの30日に亡くなられたというニュースを、年明けに送ってくれた。戦前に父親が音楽家として日本に招かれて、演奏活動と教授活動をしているときにナチスによる反ユダヤ主義のために帰国することができなくなった。ベアテはアメリカの大学に送られた。戦時中両親との連絡を取ることができなかった。日本語が堪能なベアテはマッカーサーの下で、日本で働くことになった。軽井沢に逃れていた両親との再会を果たした。その時に日本国憲法の起草に関わったのである。

 神はご自分の民を散らす。神の民は散らされたところでなお神の民としての忠実さを尽くそうとする。特別なことではなく、神の民としてどこにあってもできるだけ忠実に生き続けることである。バビロンにすでに捕囚の民となった同胞にエレミヤは語る。「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなた方の息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。私があなたがたを引いていったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」(29:5-7)

 まさにこのエレミヤ書を中心にクリスチャンの社会的なあり方を説いている社会学者のJames Davison Hunter の Faithful Presenceについて、暮れに長男の義樹と3時間ほど語り合うことになった。それはなんと言ってもN.T.ライトの視点である、神のFaithfulnessと、イエス・キリストのFaithfulnessと、クリスチャンのFaithfulnessに共通するところがあるからである。どのようなことが起ころうとも、どのような境遇に置かれようが、なお忠実に神の民として生きていくのである。預言者ヨナのようにたとえそのことで納得できないで神に怒ることがあっても、なお神の民として歩み続けることである。

 教会は神の民として歩みをなしているのだろうか。あるいは、単に西洋社会の組織化された一つの機関として存在しているだけなのだろうか。散らされることがあっても、どこにあっても忠実に生きることを求めているのだろうか。あるいは、自分たちの存在とその延命のために神の恵みを求めているだけなのだろうか。

 アメリカと日本の教会を限られたところでしか観ていないが、どうしても教会が自己充足的な方向に動いているように思える。それを支える神学がある。それでもそれが福音的であると言い張ってきた。しかし神の民の歩みを振り返れば振り返るほど、離散の神の民を神がどこかで指導し、散らされる民を神が神の国の建設のためにまたどこかで用いているように思えてならない。そうだとすると神はいずれ、自己充足的な教会の歩みの方向を変えることになる。背き続ける神の民への神の真実さが教会にも現される。そんなときが近づいているようである。

上沼昌雄記 
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 どのようなことが起ころうとも、どのような境遇に置かれようとも、なお忠実に神の民として生きていく… 今年の私のテーマとして与えられている"Take hold of the life that is truly life"と合わせて、考えさせられる。
 今日は、うさたろうさんご夫妻と、やす夫妻の新居を訪問し、とても楽しいひとときを過ごしたのだが、そのときの会話の中で、うさたろうさんが、どなたかが言っておられたこととして、「近年のクリスチャンは小粒にまとまっている」とおっしゃっていた。「自分と自分の家族と神様」という限られた関係を第一にすること、というような意味だったと思う。自分と自分の家族が救われればそれで感謝、にとどまるのでなく、救われた自分が世に出ていって、この世の祝福となろう、という観点が欠如している、というような意味だったと思う。(私はそのように解釈したのだけれど、違っていたら教えてください、うさたろうさん。)私は、「まことのいのち」を生きるということも、ともすれば、「私と神様との個人的な関係」という次元でばかり考えそうになってしまうのだが、何とかしてその殻を破りたいと願わされている。
 歴史上、いつでもどこでもそうなのだろうが、今の日本でも、忠実な神の民が切実に必要とされているはずだ。この世はそうは思っていないとしても。311以降、そして先月の総選挙以降、ますますその感が強まる。
 ばらばらなことを書くようで恐縮だが、今日のうちの霊的形成パスターのブログにあった、「Becoming like Jesus is the way we live out the etenal life now」という言葉も思い出す。神の民の忠実さとキリストの忠実さ… 自己充足的な観点でばかり物事を考えてしまうという殻を破る上での鍵は、キリストに似たものとされること以外にないような気がする。

 今日一日のうちに、読んだり聞いたり考えたりしたことが、まだ断片的だけれど、すこ〜しだけ、自分の中ではつながっていく… 本当に断片的で恐縮です。シカゴに戻ったら、もっと落ち着いて考えたいと思います。とりあえず、メモとして…

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