ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

つまずかせても、つまずくな

 ec05のメイン講師は、土浦めぐみ教会主任牧師の清野勝男子(かつひこ)師、東京バプティストチャーチ副牧師の余沢武師、ペニンスラ・フリーメソジスト教会日語部主任牧師の榊原宣行師。お三方とも、素晴らしいメッセージをしてくださった。今日は、清野先生のメッセージから特に印象に残ったことを書き留めておこう。

 「弟子の生き方」というタイトルでお話くださった時のこと。先生は、信徒の方々にはいつもこう言っているとおっしゃった。「(他者を)つまずかせても、(自分は)つまずくな。」聖書には、他の人をつまずかせてはいけないと書いてある。自分の主にある自由が弱い人たちのつまずきにならないように気をつけなさいとある。確かに、私たちの行ないや言葉が、他者のつまずきにならないよう、愛を持って配慮すべきだ。しかし、どんなに配慮しても、細心の注意を払い、気をつけて努力をしても、それでも私の言動を見てつまずく人はいるかもしれない。結局それは、その人自身の問題である。一方、他者の言動を見て私がつまずくかどうかは私の問題だ。えーっ、クリスチャンのくせに、牧師のくせに、牧師夫人のくせに、そう思いたくなる人に出会うかもしれない。しかし他人の言動のせいで自分がつまずき、信仰を失ってどうする? せっかくキリストが私のために血を流して私に得させてくださった主にあるいのちを、手放してどうする? 他人がどうであろうとも、何を言って何をしようとも、私は私の信仰を失ったりしない、つまずいたりしない、そういう心構えでいなさい。何があっても、キリストにある自分のいのちを守りなさい。それを邪魔するものがあるなら、切って捨てなさい。「いのちのことばをしっかり握って(ピリピ2:16)」いなさい。

 このお話を聞きながら、うならされた。清野先生は、多分『バウンダリーズ』は読んでいらっしゃらないだろうけど、でもしっかりバウンダリーを持ってらっしゃる方だなと思った。私が他者の言動によってつまずくかどうかは私の境界線内のことであり、私に責任がある。他者がどうであろうとも、自分の信仰の所在を他者に責任転嫁はできない。また、他者に配慮することも確かに自分の境界線内の責任であり、私たちはそれをすべきだ。しかしそれに対する他者の反応は境界線外のことであり、私にはそれを支配することも責任を負うこともできない。

 アメリカで信仰を持ち、まったく環境の異なる日本に帰国していく人たちにとって、清野先生のこのアドバイスはとっても貴重なものになるだろう。信仰生活の歩みにおいて、フォーカスすべきことにフォーカスし、そうでないことからは自由になれる。帰国する人だけでなく、ずっとアメリカにいる人、日本にいる人にとってもそうだ。 つまずかせても、つまずくな。私も心しておこう。

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