ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

御心を間違えちゃったら?

 今日も清野先生のお話から。これは、「世界宣教」というワークショップで先生がお話されていたこと。
 宣教師として海外に出るというのは簡単なことではない。海外宣教への思いがないわけではないけれど、本当に自分は宣教師として召されているのか、神の御心をどうすれば確認することができるのか… 献身への思いがある人は多分誰もが持つ疑問ではないだろうか。このワークショップでも、献身が御心であるとどうやって確信するにいたったのか、といった分かち合いが参加者の間でなされていた。その中である姉妹が清野先生に質問した。「もし御心を間違えてしまったらどうなるでしょうか? 自分は宣教師に召されていると思ったのに、実は違ったと後から分かった場合には?」これって、本当にもっともな質問だと思う。神様に仕えて行きたいけれど、神様の御心でないことはしたくないって、誰だって思うもの。
 これに対する清野先生の答えに、私は再びうならされた。正確な引用ではないけれど、先生はこんな感じにお答えになられた。
 「御心じゃなかったらどうするのってねぇー。大切なのは、あなたの動機でしょう。自分の動機をよく吟味して、本当に、誠実に神様のために働きたい、宣教地に出たいと思ったなら、神様の御心はどうかなんて、そんなに心配しないくていいんですよ。神様はダイナミッックなお方ですよー。主に喜ばれることをしたいと心から願っているなら、主はあなたをどうにでも用いることができるんですから。」
 清野先生って、本当に意表を突いたことをおっしゃる。そして言われてみれば、全くその通りなので目からウロコだ。神様の御心ではないんじゃないかと恐れて一歩も踏み出さないより、主に仕えたいという自分の動機さえ純粋で誠実なものであるなら、失敗を恐れずにどんどん出て行きなさいとおっしゃる。もし神様の促しや導きを勘違いして違う方向に進んでしまったとしても、主に従いたいという誠実な願いがあるなら、神様はダイナミックなお方だからいくらでも軌道修正をしてくださるのだとおっしゃる。神様の御心かどうかわからないからと、結局何もしないで終わってしまったことが、私もこれまで、どれだけあっただろうか。御心じゃないことをしようとして失敗するよりは、何もしない方がましという気もしないでもないけれど、だけど自ら一歩を踏み出そうとしない者のことは、神様だって導きようがないとも言える。また、神様の「御心」を言い訳に、本当は自分が恐れているだけ、面倒がっているだけ、ということもあるかもしれない。ピリピ2:13のような御言葉もあるし。
 神様の為に何かをしたいと願う時、御心が何であるかを心配するよりまず自分の動機を誠実に吟味せよというのは、献身だけに限らず、日々の決断と選び取りにおいても大切なチェックポイントかもと思った。たとえ神様の御心にかなったことであっても、動機が不純なら(愛がないなら)、無意味であると聖書も言っているし。もちろん、動機が純粋なら御心を祈り求めなくてもいいということではないけど。
 先生のこのお話を聞きながら、ヘブル10:39を思い出した。守りの信仰ではなく、攻めの信仰と言うか。
 清野先生は宣教師としてインドネシアに11年間行っておられた方で、現地での様々な異文化体験のお話もとっても面白かった。興味のある方は、メッセージCDを購入できますので、http://www.equipper.org にお問い合わせください。

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)