ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

スピード違反

 3ヶ月ほど前のある晩、スピード違反をし、おまわりさんに捕まり、チケットを切られ、免許証を没収されるという事件に遭遇した。
 …意図的に主語を抜きましたが、はい、私の話です。(--;

 私はこの日、生まれて初めて、一人で高速道路に乗るという快挙(!)を成し遂げ、高速を降りたあとも、気持ちがやや高揚していた。目的地まであと五分くらいというところの交通量の少ない田舎道で、他に車がないのをいいことに、かなりスピードを出していたと思う。というか、出していた。(ごめんなさい。)あー、ちょっと出し過ぎかなぁと思ったその時、バックミラーに赤と青のライトがちらちらするのが映った。「あら、どこかで事件でもあったのかしら」ととぼけたい気持ちを抑えつつ、すぐにその場に車を停めた。するとパトカーはそのまま私の後ろに止まり、スピーカーから「車は道路の脇に止めなさい」という声が流れてくる。とても情けない気持ちで、ひょろひょろと車を路肩側に移動した。しばらくそこでじっと待っていると、おまわりさんが降りて来て「免許証と保険のカードを出しなさい」 心臓はドキドキするし、冷や汗は出るし、目が回りそうだった。

 「はちこ、ここは制限時速が何マイルか知っているか」 免許証を確認したおまわりさんが言う。うつむいた顔をあげると、ちょうど数メートル先に制限時速の標識があった。「… 35マイル… ですね…」「君がどれだけスピードを出してたか知っているか」「わかりません」「57マイルだ。この道路で57マイルはいくら何でも出し過ぎだ。チケットを切るよ」「はい…」 この道路を私が一人で運転するのは初めてだったので、運転しながらスピード出し過ぎかなぁと思いつつも、35マイル制限だという認識は実際私にはなかったのだ。多分もっと手前にも標識があったのだろうが、見逃していたのだろう。

 しかしどんな言い訳をしようとも、これは私が受けるにふさわしい処分。Justice(公正、当然の報い)だ。もし道路のどこにも35マイル制限の標識がなければ、57マイル出しても罪に定められることはなかったのだが、あの標識のおかげで(せいで?)、私は自分が行なったことが違反行為であると知った。

 ここで、もしもおまわりさんとの会話がこんなふうだったらどうだろう。

「はちこ、ここは制限時速が何マイルか知っているか」「… 35マイル… ですね…」「君がどれだけスピードを出してたか知っているか」「わかりません」「57マイルだ。この道路で57マイルはいくら何でも出し過ぎだ」「はい」「しかし、実は君に代わってすでに罰金を払ってくれた人がいる。もし君がその罰金は自分のために支払われたと認めるなら、チケットは切らないよ」

 自分が受けるにふさわしい処分、当然の報いを受けずに済むことを、司法では「憐れみ (Mercy)」と言う。もう、話がどこに行くのか見え見えだろうけど、罪人である私たちがイエスさまの十字架のおかげで罪に定められずに済むことも、「憐れみ」による。しかも、イエスさまの血潮が私たちの罪の代価として支払われているため、義であり公正である神さまの側からも、帳尻はちゃんと合っている。

 ここでさらに、おまわりさんがこう言ったとしたらどうだろう。

 「罰金を代わりに払ってくれた人は、一度も違反を犯したことのない模範ドライバーだけが出席できる特別なバンケットに、君を招待してくれているんだ。ほら、これはバンケットのチケットだよ。違反チケットの代わりにこれをあげよう」

 スピード違反の現行犯で捕まって、紛れもなく有罪の私が、無事故無違反の模範ドライバーだけが出席できるバンケットに招かれてもてなされるなんて、そんなうまい話があるわけがない。しかし、神さまが私たちに差し出してくださっている永遠のいのちはまさにこのようなこと。いや、もちろんそれ以上。さらに日々の生活の中でも、私たちの身に釣り合わないさまざまな良い贈り物を与えてくださっている。このように、受けるにふさわしくない恩恵をいただくことを聖書は「恵み(Grace)」と呼ぶ。「恵み」は、私という人間や私の行為とはまったく無関係に、ただそれを差し出してくれる方のゆえに与えられる。

 罪の報いの代わりに差し出されたものの価値を知れば知るほど、また、自分がいかにそれを受けるにふさわしくないか自覚すればするほど、その恵みの重さがよくわかるようになると思う。しかし、実生活の中では、私たちは互いの間で恵みが差し出されるのを見ることは滅多にない。何らかの違反や罪を犯した時に、赦してもらえればそれでもう十分ありがたいことで、自分が違反を犯した相手から、赦しに加えてさらに何らかの恩恵を受けようだなんて、そんな図々しいことは普通考えないし、実際まず経験しない。また自分に違反行為がなされた場合、どんなに頑張っても赦すのが精一杯で(それだって難しい)、さらに何か良いものを与えてあげるなんて、私なら到底できない。期待されても困ると思ってしまう。私たちに神さまの恵みがなかなか実感としてピンと来ないのも、そのせいなのかもしれない。だけど神さまは、そんなあり得ないことを、本当の本当に私たちになさってくださったのだ…

 没収された免許証と引き換えにもらった違反チケットを握りしめながら、神さまが私に与えてくださった恵みと憐れみの深さを、もう一度噛み締めた夜だった。

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