ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

He is not safe, but He is good.

 出エジプト記32章から34章に続く一連の出来事には、息をのまされる。奇跡の数々を見せ、偉大な御力をもってイスラエルの民を紅海を渡らせエジプトから連れ出してくださった神。しかし民はモーセが山にこもって主と語らっている間に、待ちきれなくなり金の子牛を造って偶像礼拝の罪にふけってしまう。山から降りてその様子を見てかんかんに怒ったモーセは、主が御自身で造られ、自ら文字を記されたあかしの板を投げ捨てて砕いてしまった。修羅場だ。大変だよ、どうするのよ、こんなことになっちゃって… 
 32章26−29節に見られるモーセの、民に対するコンフロンテーションはものすごい。新約の「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです(マタイ5:29、30)」を彷彿させる。自分たちの中から徹底的に罪を切り捨て、そして再び主の前にでて、民のためにとりなしをするモーセ
 その後に続く33章でのモーセと神さまの親密なやりとり。ここは聖書の中でも私が一番好きな章の一つかもしれない。私と神さまの関係の原点ともいえる箇所だ。十年くらい前だったか、この章を読んでいたとき、モーセと神さまの間にある親密な関係、深い人格的な交わりに私は打ちのめされてしまった。その後何日もこの章ばかり繰り返し読み、神さまは、こういう関係を私とも持ちたいと願っておられるのだと確信した。 この章を読み返すたびに、その時の締め付けられるような思いが蘇る。
 そして34章の冒頭で、主はモーセが砕いてしまった板について、新たな指示を出してくださる。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書き記そう。(1節)」せっかく神さまからいただいた大切なものを台無しにしてしまったけれど、主はセカンドチャンスを与えてくださった。粉々に砕かれ失われてしまったものを、主ご自身がもう一度回復させてくださった。この時失われたのは、あかしの板だけでなく、神と民の間の関係もだったと思うけれど、神は板と共にその関係も回復させてくださった。出エジプト記の最後の数章にみられる民の仕えっぷりは素晴らしい。
 God is good. And His name is Jehovah. 主権を持って、御思いのままに恵もうと思う者を恵まれ、あわれもうと思う者をあわれまれる神(33:19)。どんな大失敗をしでかしても、もう一度チャンスをくださる神。
 ああ、それにしても、激しいな。神さま、激しいよ。ここまで書いて、『ナルニア国物語』でビーバーさんが子供たちに言った言葉を思い出した。「He is not safe, but He is good.(あの方は安全ではありません。けれども、よい方なのです)」 イスラエルの民にとっても、神に従うということは必ずしも安全ではなかった。たくさんの戦いに挑まないといけなかったし、罪を犯せば徹底的に取り扱われたし。それでも主はよいお方。He is not safe, but He is good. そうか、私も、安全ではないけれどもよい神について行っているんだ。畏れつつ、信頼しつつ。

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)