主が選ぶ場所で(個人的な覚書)
申命記には「主が御名を住まわせるために選ぶ場所」みたいな表現が何度も出て来る。調べてみたら、申命記12章5節に始まって、31章11節まで21回あった。
約束の地に入って定住しても、好き勝手な場所で捧げものを捧げたり礼拝したりするのでなく、神さまが指定した場所で礼拝しなさい、ということかな。私たちが主を礼拝する場所は、神さま御自身が選ばれる…
12章では、8節に「あなたがたは…おのおの自分が正しいと見ることを何でもしている」とあった。荒野をさまよっているうちに、捧げものの捧げ方、礼拝の仕方がだんだん「自分流」になってきて、神様が定めたものからずれてきたことを示しているらしい。
主を礼拝する時、形式に縛られた律法主義的な礼拝でなく、神さまの愛と恵みへの応答として心からの自由な礼拝を捧げたいと思うけれど、それでも礼拝の中心におられるのは神さまだということ。礼拝のコンスーマーは主であり(レビ9:24)、あくまでも主に対して捧げるもの、主に喜んでいただくもの。私たちの好みや気持ちを満足させるためのものではない。
私の目に正しいと見えるやり方ではなく、あなたのお心にかなったやり方であなたを礼拝できますように。あなたが選ぶその場所を、どうか私にお示しください。