ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

士師記

 ここ数日、士師記を読んでいて、ひじょーーーーに気が滅入った。
 士師記は、全編を通してイスラエルの民の背信、悔い改め、一時的な平安、再び背信…という読んでいて胃が痛くなるようなパターンが繰り返される。そして、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なって」(17:6)いて、宗教的な活動は多少見られるものの、それも神さまが教えたやり方からは全然はずれている。
 ひっどい話だなーーと思いつつも、あちらこちらに自分自身と重なる部分もあり、どきっとさせられる。逃げ出さないで、主の御前に出よう。そして語っておられる方の御声に耳を傾けよう。
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 と書いていたら、「やこぶのはしご」の hk-_-zz さんから、hk-_-zzさんのブログでも聖書通読に関する記事を載せていらして、士師記についても書いているので参考までにどうぞ、というご連絡をいただいた。これはタイムリー!
 一部引用させていただきます。
http://hk2005.exblog.jp/2919938#2919938_1 より)

士師記のパターン
1.神への不従の罪 →2.裁き →3.民の叫び →4.士師が与えられる ×12回

これは現代の教会においても適用されることです。もちろん、御霊を頂いている私たちは、みことばに憩い安らいで良いのです。しかし、士師記を読むときに、神の裁きがどれほど恐ろしく、また、罪の破綻の果てには何があるのか?ということを、恐れつつ覚えなくてはなりません。士師記の終わりは、強姦バラバラ殺人事件と戦争による滅びで閉じているのです。みことばを蔑ろにすることが何を招くのか、私たちは恐れつつ学ばなくてはなりません。

もし、王がいなかったなら・・。

真実な王であるイエス・キリストに、今日も畏れを以って、また、贖われた喜びを存分に味わいつつ、お仕えさせて頂きたいと思います。

 「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(21:25)

 そうだ! 彼らには王がいなかったけれど、私たちには王がいる。 イエス・キリストという昨日も今日もいつまでも変わることのない永遠の王が! このお方から目を離すことなく、「十分に気をつけて」(ヨシュア23:11)、「主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え」(ヨシュア24:14)ていこう。

 あー、滅入っていた気持ちに光が差し込んだ! これで今夜は気持ち良く眠れそう。hk-_-zzさん、感謝します!

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