第一サムエル15章より、覚え書き
「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。(11節)
神さまはある意味、サウルに期待していたんだ。そうだよね、かりにも主御自身が油を注ぎ、主の霊をくだし、サウルの心を変えて新しくする(10:9)ことで彼を王として整えられたのだから。サウルが主に聞いて、語られたことに従う限りは、神さまもサウルを祝福し、王権を確立させ、イスラエルに平和をもたらしてくださるおつもりだったのだろう… イスラエルの民に対しても、「あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主に聞き従い、主の命令に逆らわず、またあなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い」(12:14)と念を押して語っておられたのに…
だけど、サウルも民も、主を恐れなかった。主の言葉を軽んじた。神さまが「悔いる」というのは不思議な気もするけど、これはきっと、人間が物事のoutcomeを自分の思い通りにできなかった時に感じる残念さではなく、サウルやイスラエルの民を愛すればこその残念さなんだろうな。(29節でも「この方は人間ではないので、悔いることがない」と言っているし。)ここに主の悲しみを感じる。神さまはきっと、サウルや民の自分勝手で神を恐れぬ行動や選択に本当にがっかりして、悲しかったのだろうと思う。御自身のお言葉に聞き従わない民を見るとき、神さまは無表情で淡々と罰したり裁いたりするのでなく、本来意図されていた関係が叶わなかったことに、そのお心を痛められるのだと思う。
主は主の御声に聞き従うほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、
従わないこと(stubbornness)は偶像礼拝の罪だ。
あなたが主のことばを退けたので、
主もあなたを王位から退けた(22、23節)
主が求めておられるのは、「いけにえ」という宗教的行ないではなく、へりくだって素直な心で主に聞き従うこと。
私の生活の中で、へりくだった心からの従順の代わりに、表面的ないけにえでごまかしてしまっていることはないだろうか。いけにえだけ捧げて、それで悦に入ってしまっていないだろうか。
主よ、私の心を探ってください。私が頑迷な心になり、あなたを悲しませてしまうことがないように…
私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で、私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。(30節)
この期に及んで、サウルが気にしているのはなおも自分の面目を立てることだなんて!
もしもサウルがここで、本当の本当に主の前に悔い改めたなら、私たちにいつでもセカンドチャンスを与えてくださる憐れみ深い神さまのことだから、サウルにももう一度チャンスを与えてくださっていたかもしれないのに…
主に語られる時、罪を示されるとき、私の心がかなくなになって主のお言葉を退けてしまうことがありませんように。サウルのように主を悲しませ、悔やませてしまうことがありませんように…