ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

第一サムエル17章より、覚え書き

 JCFNの聖書通読で、シンガポールのtomoくんが1サムエル17章について書いてくださっていたコメントにとても励まされたので、許可を得てここに転載させていただきます。

イスラエルの民は、日常と非日常とを分けて考え、(過去の戦いで主が働かれたのは知ってだろうが)自分が今従軍している戦いの中には神が働いていないかのように思っていた。一方、ダビデは日々の生活が神の栄光を現すものとして捉え、毎日を管理者として主人の命令に仕え、羊を飼っていた。

そうやって普段通りの生活をしている今日この日、神様は突然主の大事な戦いに自分を招き入れるかもしれない。神様はダビデのような者を喜んで用いてくださる。また、必要なものは神様が既にその場に与えてくださっている。石にせよ、また羊飼いという普段の生活から得る経験にせよ、既に神様はその戦いのために準備をされているのだ。

日々の自分の生活を喜んで受けていきたい。また、自分の名が呼ばれたとき、主の御名を第一として、信頼してその召しに応えられるようでありたい。

 1サムエル17章は、巨人ゴリアテにイスラエルがなぶられているのを聞き、羊飼いダビデが立ち上がる箇所。

 私たちはものごとを霊的な事柄と非霊的な事柄に分けて考えがちだけれど、主にあって生きる者は「御霊によって」歩んでいるのだから、広い意味では全てのことは「霊的」であると言えると思う。(もちろん、狭義では、霊的vs感情的とか、霊的vs身体的などと分けることもできるけど、それは感情面や身体面には主が関わらないという意味ではなくて。)主は私たちの日常の営みの中にも働いてくださっており、私たちも日常の営みを通して主のご栄光を現すことができる。「毎日を管理者として主人の命令に仕え、」任されている仕事に従事すること。それがどんなに平凡で些細なことのようであったとしても、主はそのうちにおられ、私たちを主との豊かな交わりに導き入れ、神の御用のために整えてくださっている。ハレルヤ、tomoくん、どうもありがとう。とても励まされました!

ホーム日記ミルトスの木かげで(最新)