ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

人との距離のはかり方?

 5月号の『百万人の福音』で「人との距離のはかり方」という特集をしている。HPによると、「新しい生活、環境、新学期が始まる季節。 新しい環境に身をおき、新しい人間関係が始まる時期。 新しい人間関係で特に悩むことの一つが距離。 ちょうどいい距離がはかれるか、あるいはお互いの距離のはかり方が違うために苦労することもあります。今回の特集は人間関係について、特に人の距離に光をあてて考えます」と書いてある。なるほど。興味深い目のつけどころ。これはもしかして境界線を意識しているのかな。

 だけど、境界線を引くというのは、必ずしも「適度な距離感」をとることを意味しているんじゃないと私は理解している。境界線を引きつつ、とても近い関係でいることは可能…というより、とても近い関係を、健全な形で持つためにこそ境界線が必要、と言った方がいいかもしれない。健全な境界線を持っている人は、人と近い関係を築ける人だと思う。なぜなら、そういう人は、恐れることなく他者に近づけるから。相手を支配・操作しようとする不健全な人間関係のダイナミクスから自由だから。

 と思ったら、丸屋先生も「境界線を引いて隣人愛に生きる」という記事を寄稿されていた。また、高橋秀典先生も「『適度な距離感』という罠」という記事を書いておられる。私は『百万人の福音』を購読していないので、残念ながらこの記事を読むことはできないけれど、きっとそのあたりのことに触れておられるんじゃないかなぁと勝手に想像する。いや、まったく勝手な想像だけど。全然違うかもしれない。いずれにせよ、良い記事に違いない。

 実は高橋先生からは数週間前にメールをいただいて、5月号の『百万人の福音』に寄せた記事の中で、受け取りようによっては、境界線に関して批判的とも誤解されうる表現があったかもしれませんが、境界線は夫婦そろってとても役に立っています、とわざわざお知らせくださった。細やかなご配慮に感謝。

 聖書を読みながら、また日々の神様からのお取り扱いを受けながら、神様の境界線を感じることがよくある。しかしだからと言って、神様に突き放されたと感じるわけではない。むしろ、境界線というのはその人を現す輪郭でもあるので、境界線を感じる時は、相手をより良く知り、より近くに感じられる時だとも言える。神様の境界線を感じる時、その境界線に応答することで、より一層神様に近づくことができる。人間関係でも、多分同じことだと思う。

 人との距離のはかり方… うん、確かに大切な問題だよね。ただ、「人との距離」が何を意味しているかという事も大事かもしれない。単に年がら年中一緒にいて何かを一緒にやっていれば「近い」のかと言えば、そうとは言えない。四六時中一緒にいるけど全然近くない関係もあるだろうし、逆に、滅多に顔を会わすことはない、数年に一度しか連絡を取れない、という関係であっても「近い」間柄はあると思う。

 私にとっての「近い関係」「親密な関係」とは、互いに愛し合い、相手の最善を思い合い、そのためにできる努力はお互いに惜しまない、忌憚なく自分の考えを分かち合えるし議論もできるけれど、同時に、相手の考えや決心も尊重できる、自分の失敗を告白できるし、相手の失敗も受けとめることができる、そんな関係かなぁと思う。自分にとっての「近い人間関係」ってどういうものだろうと考えてみた時、この人とは近い関係を持っていると思える人との間には、きっと健全な境界線が引けていることに気づくんじゃないかな。

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