ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

イザヤ書から(覚え書き)

 ここ数日、イザヤ書を読む中で思わされたこと。
 7章で、ユダはアラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカに攻め込まれていた。反アッシリアのレツィンとペカは、アハズを降位させ、別の王を立て、ユダを自分たちの意のままにさせようとしていたのだ。当時のユダの王はアハズで、彼はダビデと違って主の目にかなうことを行なわず、偶像礼拝の数々を行なっていた。(このあたりは、第二列王16章と合わせて読むと、何が起きているのかわかりやすい。)
 ユダの人々はアラムとイスラエル(エフライム)の同盟に非常に動揺したが(2節)、そこにイザヤが来て、主がユダを守ってくださるから、恐れずに主に信頼しなさいと告げた。(4ー9節) そればかりか、主はアハズに、主が確かにこの約束を守ってくださることのしるしを求めてもいいぞとさえおっしゃった。(11節) 英語の聖書(NLT)ではこうなっている。"Ask me for a sign, Ahaz, to prove that I will crush your enemies as I have promised. Ask for anything you like, and make it as difficult as you want." どんな難しいしるしでも好きに求めていいぞ、だなんてすごい。神の道に歩んでいなかったアハズだったけれど、ここで悔い改めて主に依り頼み、信頼するようになることを主は願ったのだと思う。ダビデとの間にあったような親密な関係を、アハズとも持つことを願われたのだと思う。ここまで言ってくださる神様の愛に、それだけでもう私は打ちのめされてしまいそうだ。何という憐れみと恵みに満ちた招きだろう! 
 それなのに、アハズは主の招きを拒んだ。「私は求めません。主を試みません。」(12) 確かに私たちは「主を試みてはならない(申命6:16)」と教えられているから、ある意味アハズは正しいことを言ったのかもしれない。でも、一見信仰的に見えるアハズの言葉の裏にあったのは、実は彼の心のかたくなさではないだろうか。主の憐れみに満ちた招きを拒んだアハズは次にどうしたかというと、あろうことかアッシリヤに使者を送り、アッシリヤからの助けを求めた。(第二列王16:7) アッシリヤはアハズの贈り物を受け取り、レツィンを殺して一時的にユダを守ったけれど、後にはユダを踏みつけることになる。

 主の助けの招きを拒み、自分の判断に頼り自分のやり方で身を守ろうとした愚かなアハズ。主の恵みと憐れみに満ちた語りかけに対して心をかたくなにし、背を向けてしまうことほど愚かなことはないだろう。そして、私もまた同じことをやってしまう者であることを思わされた。主はいつでも招いてくださっているのに。いつでも助けの手を差し延べてくださっているのに。なぜ他のものに頼ろうとするのか。なぜ自分で何とか立ち回ろうとするのか。一時的には助けられても、それが主からの助けでなければ、いずれは私を縛り、支配し、虐げることになるのに。
 しかし、主の憐れみはここで終わらない。自分たちの罪とかたくなさゆえにアッシリヤに虐げられることになったユダを、主はなお助け出して下さる。「それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。『シオンに住む私の民よ。アッシリヤを恐れるな。… わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。… その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」(10:24−27)
 なんという愛だろう。そしてこの語りかけは、そのまま私たちへの語りかけでもある。自分のpoor choiceのせいで窮地に追い込まれ、アリ地獄のようなところに堕ち込んでしまっていたとしても、主はなお私たちに「恐れるな」と語ってくださる。めぐんちゃんとも話してたのだが、この「くびきはあなたの肩からもぎ取られる」という箇所がまたすごい。そっと外すのじゃなく、もぎ取る…! ゴキッとかバキッとかいう音が聞こえてきそうで、恐くもある。いかにも痛そうだ。でも、私をつなぎ、奴隷にし、支配しているものなら、たとえ痛くても外してもらった方がいい。くびきがもぎ取られるその瞬間は、痛くてうずくまってしまうかもしれないが、その痛みが去って立ち上がった時、肩がびっくりするほど軽く自由になっていることに気づくのだろう。
 私の肩の上にある重たいくびき。これは私の一部ではない。あんまり長いことくびきにつながれてると、これも私という人間の一部、とか勘違いしてしまいそうだけれど、そうじゃない。これはもぎ取られるべきものなんだ。 痛そうで恐いけれど、でも主よ、私のくびきももぎ取ってください。
 私たちの神は、失われた者、壊れた者、つながれた者を再び見いだし、修復し、解き放ち、回復してくださる神。死んでいる者に、新しいいのちをくださる神。だから、悔い改めて主に立ち返ろう。うなじのこわい者になってはいけない。心を柔らかくして、主の助けの御手にすがろう。

その日になると、
イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、
もう再び、自分を打つ者にたよらず、
イスラエルの聖なる方、主に、
まことをもって、たよる。(イザヤ10:20)

 

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