ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

前線が通り過ぎた朝

 熱波で、月曜火曜は一日のうち10時間以上も体感温度が100度(37.8度)を越していたらしい。昨日も相当暑かったが、夜になって激しい雷雨と共に前線が通過し、今朝は涼しくなった。とはいえ、また明日には90度以上が戻ってくるらしいけど。
 こんなに暑いと、二年前の日本の夏を思い出す。あの時は4年ぶりに帰国し、日本で5週間過ごしたのだけれど、連日大変な暑さだった。ただ、早いうちに梅雨が明けてくれたので、暑いながらも日本の夏を満喫することができ、楽しかった。子供たちも、いまだにあの時の夏の話をよくする。次に日本に行ったら、また2年前と同じことをしたい、と。(多分無理だと思う… ごめんね、子供たちよ…)

 さて、通読がイザヤ書からエレミヤ書に入って真ん中あたりまできた。
 今回のイザヤ書通読では、私は神様のユダへの一方的な憐れみが特に印象に残った。創世記からずっと読み進む中で、主の言葉に聞き従うならいのちと祝福があり、従わないなら死と呪いがある、ということを繰り返し語られてきて、確かに神様はそのお言葉の通りになさってこられたけれど、イザヤ書では、どうにも主に従えない弱いダメダメなユダの姿、主に立ち返ろうにもボロボロになり過ぎてどうしようもなく、しかもそれは自分自身のそむきの罪の結果でそうなってしまった愚かな姿と、それに対してただ憐れみによって手を差し延べ、「罪を赦す」「かすみのようにぬぐい去る」「もう思い出さない」と言ってくださる神様の驚くべき恵みを見せていただいた。「回復」「釈放」「建て直し」「復興」「一新」そういったことばが、暗闇の中の一筋の光のように差し込んでいた。

 続くエレミヤ書では、偽りの平安の中で高ぶることと、ただ主の御前で心砕かれへりくだることとのコントラストを見せられている。イザヤ書でも示されたような主の恵みに背を向けることほど、恐ろしい高ぶりはない。あからさまに主の言葉を退け我が道を行こうとするにせよ、自分で何とかしようともがくにせよ、あるいは自己憐憫にせよ、それはいずれも私たちの心の高ぶりの現われなのだろう。そして私たちが高ぶるとき、主は涙を流して悲しまれる。(エレミヤ13:17)また、高ぶる者に対して、主の裁きはまぬがれない。

 しかし、主は最後の最後まで、私たちに悔い改めの機会を与えてくださるお方。最後の最後まで、へりくだって主に立ち返れと語りかけてくださるお方。

 主は昨日の私の失敗よりも、成功よりも、今日の私の従順をより問題にされる。 (エレミヤ18:7−10)

 Living one day at a time... 昨日の失敗に、今日の私を支配させないで。昨日うまくやれたからといって、そこにあぐらをかかないで。一日一日、高ぶることなく、失敗したならその都度悔い改め、主の憐れみを請い、今日という日を主に喜ばれるやり方で、へりくだって生きたい。

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