ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

捧げることは主の民の特権

 通読で今、民数記を読んでいる。ここまで読んできていろいろ語られている中で、この数日特に心に迫っているのは、捧げるとは主の民の特権である、ということ。 
 レビ記の27章に「人身評価」というものについての記録がある。神のための働きに自分(あるいは自分に属する誰か)を聖別して捧げる時には、その人の年齢や性別に応じて、お金を支払わないといけないのだそうだ。つまり、わざわざお金を払わないと献身できないということ。同様に、家畜を捧げる時も、家を捧げる時も、土地を捧げる時も、祭司による評価を得て、それに従った金額を支払って捧げる。より価値のあるものを捧げるほど、より高い金額を支払う。私は、お金を払ってまで捧げ物をするという発想に衝撃を受けてしまった。イスラエルの民は、そこまでして捧げ物がしたかったのかー。
 そして、荒野にいた最初の二年間のうちに多くの捧げ物をもって幕屋を建設し、主への礼拝の捧げ方を神ご自身から学んだイスラエルの民は、いよいよ約束の地に入るはずだった。ところが先に偵察に行った12人のうちの10人が、ここの先住民はでかくて手強そうだから我々には到底入っていけないと泣き言を言い、民もそれを鵜呑みにしてエジプトに帰った方がましだと言い出したため、神の怒りを買う。もう少しで滅ぼされてしまうところだったが、モーセの命がけのとりなしのおかげで神はイスラエルの民を赦すことにしてくださった。しかしながら、イスラエルの民は40年の間荒野をさまようことになり、しかもその時生きている大人は、ヨシュアとカレブ以外は約束の地には入れないと神様に宣言されてしまう。そして、約束の地に入った暁にはこのようにして主を礼拝せよと、再度の指示を受ける。(民数記15章)
 あー、これは前にも与えられたインストラクションと同じだなーと思いつつさらさら読んでいた私は、この箇所に対応する高橋秀典先生の『ヤハウェがあなたがたを恋慕って…』を読み、またもや衝撃を受けた。

「イスラエル人はシナイの荒野で、神の幕屋を完成し、驚くほど多くのいけにえをささげることができ、神の栄光を拝しました。そして、荒野で最初の過越の祭りを祝い、約束の地に向かい進軍しました。しかし、カデシュ・バルネアで、約束の地の住民の強さを知って怖じ気づいて神に逆い、さばきを受けてしまいます。この後、彼らは、四十年後にヨルダン川を渡るまで、男子に割礼を施すことも、過越の祭りを祝うこともできなくなります。つまり、神の民としての特権が一時停止されたのです。彼らはせっかく完成した幕屋で礼拝しようにも、何もない荒野で、ささげるべきものがほとんどない貧困に陥るのです。」(310頁)

 なんとなんと、イスラエルの民は、この後カナンの地に入るまで、もう主を礼拝することも捧げ物を捧げることもできなくなってしまったんだ!! 今まで気がつかなかったよ。そうだったのか… 「神の民としての特権が一時停止された」だなんて、なんと悲しいことだろう!
 
 私は、捧げものをするとは犠牲を払うことだと思っていなかっただろうか。犠牲だ犠牲だと思いながら奉仕をしたり、献金したりすることがなかっただろうか。いつもそうだとは言わなくても、時にはそう思ったことがなかっただろうか。あるいは、義務感から捧げたこともあったかもしれない。しかし本来、捧げ物とは、献金であれ奉仕であれ礼拝であれ、犠牲や義務どころか、神の民の特権なのだ! この一連の聖書の記事を読む中で、私の中に「捧げる」ということについて、どこか奢った態度があったことに気づかされ、恥ずかしくなった。

 そんなことを思っていたら、めぐんちゃんがお友達の話を分かち合ってくれた。(勝手に言及してごめんね、めぐんちゃん!)
 健康に問題があって働けないお友達がいて、ようやく障害者手当が出るようになった時、そのお友達が嬉し泣きに語った言葉は、「これでやっと家賃が払える」でも「車の修理ができる」でもなく、「これでやっと献金することができる」だったのだそうだ。
 そういえば、私の知人にも、ご主人がノンクリスチャンであるため自由に献金ができず、それが辛いので内職を始めた人がいた。彼女は、自分で働いたお金から自由に献金できることが本当に嬉しいと言っていた。

 主に自ら進んで捧げ物をすることができる恵みと特権。私もそれをもっとよく味わい、そのことに心からの感謝の気持ちを持ちつつ捧げる者になりたいと思わされた。

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