ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

詩篇102篇(通読メモ)

 詩篇102篇には、「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」と注意書きがある。

 クリスチャンが嘆いたり気落ちしたりしていると、なんだか不信仰のようで、信仰があるならいつでも元気でないといけないんじゃないか、みたいに感じることがある。でも、不信仰かどうかの分かれ目は、嘆いたり気落ちしたりするかどうかではなく、それを主の前に持っていくかどうか、なんだと思う。

 クリスチャンに嘆きや恐れや不安があると何が起きるか。それは私たちをますます主へと向かわせる。嘆き気落ちしているから、怖いから、不安だから、私たちはますます主に向かい、主に訴え、主にしがみつこうとする。そうやって悶々とした思いを主の前に持って行くとき、頻繁に起きる事がある。それは、心を注ぎ出して祈る中で主の霊に触れられ、嘆いていた私の口が、いつの間にか主を賛美し、褒めたたえ、感謝していること。恐れて不安を感じていた私の心が、神様の御業への期待に満ち、わくわくドキドキし始めること。そして、ピリピ4:7にあるように、「人のすべての考えにまさる神の平安」が私の「心を思いをキリスト・イエスにあって守っ」ておられることに気づくこと。

 そういえば、最近これと似たようなことを、どこかで読んだような… (ガサゴソ… 記憶を探る音)
 あっ、思い出した。サンディエゴのパスターマックこと、大倉信先生のメッセージだ!
 これです。
http://www.mmpinc.us/pmac/2007/08/post_518.html

 この中で、先生はこうおっしゃっておられる。

 この辺りのことについてクリスチャンで精神科医であられる工藤信夫という医師がとても興味深いことを本に書いています。この工藤医師は自身の長いクリスチャンとしての生活を振り返り、実際自分は「いつも迷っていたし、悩んでいた。そしてその根底にあるのは、はたして神は本当に全ての事態に関与しておられ、まったき善といえるだろうか」という問いを持っていたというのです。

しかし、この工藤医師がその後に書いているのですが「実はこうした神に対する素朴な疑問と探究心こそが、私を神に向かわしめ、その関係を強固なものとした」ということを工藤医師は知ったというのです。すなわち、つぶやきや不平が自分の信仰を豊かにしたというのです。そして、A・W・トウザーという人の言葉を引用して「健全な不信仰」ということを書いているのです。

 先生は、不信仰を通ることで、逆に神様との関係が深められ、信仰が強められ、次のステージへと押し上げられることもあるとおっしゃっている。

 そして、これに通じることを、『ヤハウェがあなたがたを恋い慕って…』の中で高橋秀典先生が、また確か『The Bible Jesus Read』の中でフィリップ・ヤンシーも、言っていたような気がする。(その箇所が残念ながら今すぐには見つけられなかったけれど…)

 とにかく、嘆きや恐れや不安も、納得いかない、理不尽だと感じる心も、迷い混乱している思いも、主に向かって主の前に差し出そう。そうすることで、主の慈愛に満ちた豊かなお取り扱いに与ることができるのだから。

 ダビデの詩篇も、それを証言している。

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