ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Is Jesus the Only Way?

 以下は、10/8の記事のコメント欄でタロウさんが質問されたことへの私からのお返事です。一旦コメント欄に投稿したのですが、異様に長かったので、こちらにすることにしました。

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タロウさん、

 とても大切な質問をしてくださってありがとうございます。タロウさんは、きっと長いことこの問題を考え続けてこられたのだろうと想像します。私にタロウさんが納得いくような答えができるかわかりませんが、でも質問してくださって嬉しいです。

 タロウさんのご質問は、イエスを神と認めない人、他の宗教を信仰している人、また信仰を持たない人たちの「救い」はどうなるのか?ということだと思ってよいでしょうか。

 このご質問に答えるためには、そもそも「救い」とは何なのかを定義する必要があるかと思います。タロウさんは「救い」をどのように理解しておられるでしょうか。

 とりあえず結論を先に言うなら、私は、イエスは神であり、救い主であり、主であると信じ受け入れる人だけが、私たちを支配していた罪から贖われ、神の御怒りと裁きから「救われる」と信じています。

 そういうと、排他的に聞こえるでしょうか。しかしながら、もし本当に「救い」ということを真剣に考えるのであれば、私たちは何かを選ばないといけないのだと思います。どんな神でもいいから、何かを真剣に誠実に信じていれば、行きつく所は同じで皆救われる、という考えもありますが、そのような思想が提供する「救い」はいったい何からの救いなのでしょうか。本当に、私たちが求め、必要としている「救い」なのでしょうか。

 一つだけを選ぶというのは、「もし間違ったものを選んでしまったら?」と思うと怖いですよね。また、世の中には自分と違う選択をする人も大勢いることを思うと、自分の選択だけが正しいと主張することは、傲慢のようにも思えますよね。いろいろな選択肢をキープしつつ、どれを選んでもいいのだと思えば、余計な物議を醸すこともないし、気持ちの上では確かに一番安心できるだろうと思います。でも、実はそれを選ぶことも一つの選択であり、逆に言えば、それが間違っている可能性もあるわけです。もしイエスが救いに至る唯一の道であるというのが真理であるなら、何を信じても救われる、という考えを信じていては救われないことになります。

 何を信じても行きつく先は同じ、という考えが導くところは、結局、神も救いも、人間の気持ちの問題にすぎず、実際にはそのようなものは存在しない、ということではないでしょうか。ですから、本当は神など存在せず、どうせ死ねばすべては無に帰すのだから人間にとって「救い」など必要ないが、信仰を持つことで生きている間の限りある時間を精神的に豊かに過ごせるならば、それでいいじゃないか、と割り切っている人にとっては、それでもいいのかもしれません。それもその人の選択です。でも、本気で、真摯に、「救い」や「神の存在」について知りたいと願う人ならば、「何を信じても行きつく先は同じ」という考えは、残念ながらその人が求めている答えにはならないと思うのです。なぜなら、もし人間にとって本当に「救い」が必要であるなら、それが何からの救いであり、どうすればその救いを得ることができるのかを知ることは、人間にとっての文字通りの死活問題になるからです。

 この前の日曜日、うちの教会の牧師が、ちょうどこんな話をしていました。ロサンゼルスに向かう飛行機に搭乗している最中、同じ列の前の方に友人が並んでいるのを偶然みつけたそうです。それで、「何しに行くんだい?」と声をかけました。するとその人は、「ダラス(テキサス)でもたれる会議に出るんだ」と答えました。列はどんどん進んでいたので、その人はそのまま搭乗してしまったのですが、牧師は後ろに立っていた人と顔を見合わせ、「ダラス? この飛行機は、ロサンゼルス行きですよねぇ?」と確認しあったそうです。そして、友人が本当にダラスに行くつもりならば、この飛行機に乗っていては彼の目的地に到着できないので、彼はあわてて乗務員に事情を説明し、離陸前に「この便はロサンゼルス行きです。ダラスに行く予定の人は、今すぐこの飛行機を降りて、ダラス行きの便に乗ってください」と機内アナウンスをしてもらったそうです。すると、遠くの座席に座っていた友人が飛び上がり、荷物を抱えて降りて行く様子が見えたそうです。

 本人の目的地とは違う場所に行く飛行機に乗っている友人を見た時、それを指摘することは傲慢でも意地悪でもなく、親切であり、愛ですよね。その友人はちょっと恥ずかしい思いをしたでしょうが、それでも間違ってロサンゼルスに連れていかれるよりはましだったでしょう。ロサンゼルスとダラスの違いなら、改めて飛行機に乗り直せば遠回りをするだけですみますが、これが、永遠の終着地点に関することだったらどうでしょうか。

 イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます」(ヨハネ10:9)と言われました。また、十戒の一番最初の項目は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」でした。(聖書を信じない人にとっては、いくら聖書に書いてあると言われても無意味でしょうが、タロウさんは神もイエス・キリストも個人的には信じておられるとのことなので、あえて聖書を引用しました。^^) タロウさんは、ご自身ではイエスを信じられるけれど、イエスを信じない人は救われない、というのが納得できないのかなと思います。けれども、イエスの言葉は決して排他的ではないのです。イエスのこの言葉を信じるか信じないか、受け入れるか受け入れないかは、個人の選択であり、イエスといえども強要はできない、ということだと思います。有名な「放蕩息子」のたとえにもあるように、神のもとに来ようとする人のことは、神様はいつでも両手を広げて喜んで迎え入れてくださいます。他の宗教では、救いに至るためのさまざまな基準や訓練がありますが、キリスト教においては、私たちの救いに必要なものは、すでにすべて完了しているのです。唯一、それを信じるか信じないか、受け入れるか受け入れないかの選択だけが、私たちにまかされているのです。私は、救われたいと願っている人たち、神の存在について知りたいと求めている人たちすべてが、真理を見いだし、それに沿った選択をされることを心から祈ります。

 先の方で問いかけた、「タロウさんは『救い』をどのように理解しておられますか」という質問は、修辞疑問ではなく、この問題を考慮するにあたって、ぜひタロウさんご自身の中でも考えてみていただきたいことです。(このコメント欄にお返事していただく必要はありませんが!^^)そうすれば、イエスを神と認めない人、他の宗教を信仰している人、また信仰を持たない人たちの「救い」はどうなるのか?という問いにもおのずと答えが出てくるのではないかと思います。

 最後に一つ、本を薦めさせてください。(すでに読まれているかもしれませんが…) CSルイスの『キリスト教の精髄』です。タロウさんが疑問に思っておられることを整理するのに役立つだろうと思います。

 長々と読んでくださってありがとう!

キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)

キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)

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