ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

タロウさんへのお返事の続き:キリストの受肉と私たちの今日の「救い」

 先日の記事"Is Jesus the Only Way?"へのタロウさんのお返事に対する私のお返事です。またもやコメント欄がなが〜くなってしまったので(笑)、こちらに投稿します。(ちなみにこの記事のコメントでは、大江健三郎さんの話やCSルイスの話など、とても興味深い展開がありました。皆さん、いつも本当にどうもありがとう!)

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 タロウさん、素晴らしい分かち合いをありがとうございます!

 まず最初に、ご質問にお答えしますね。あの「(?)」に深い意味はありません。「泥臭い」という表現が適切かどうかちょっと自信がなかったため、何気なくつけた「(?)」でした。考えさせてしまってごめんなさいね。
 そして、実は、あの文章のあとに、「だからこそ、イエスは人となってこの地上にやって来られ、私たち人間の間で人間として一緒に住まわれたのではないでしょうか」という一文を書いていたのです。でも、投稿する前に、意味不明かもしれないと思って消してしまっていました。

 タロウさんが今回分かち合ってくださったことは、私自身、ここ数年ずっと考え、また教えられ続けてきた「キリストの受肉」ということと深く関わっているようです。(受肉とは、神であり霊であるイエスが肉を取られ、人となってこの世に生まれてこられたことです。)
 キリスト教の教義の中で、この「受肉」ということはとても大切なものなのですが、キリスト教の歴史のかなり早い時期から、「受肉」ということが「救済論」(つまり「救い」についての教義ですね)からは抜け落ちてしまっているという指摘を、神学者の上沼昌雄先生がされていました。

 それに関する上沼先生の記事を転載したものです。↓
http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20061220 「受肉の神学のために」

 それから、こちらも関連があるかもしれません。↓
http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20060222 「レシピと焼きたてのパンーーthe Word Incarnated」

 救いに至る道は必ずしもイエスでなくてもいいのではないかというようなことを、先日タロウさんは書かれていましたが、私にとって、なぜイエスこそ唯一の道なのかということが、まさに今回タロウさんが分かち合ってくださったことの中にあるんです。

 他の宗教では、私たちが修練を積んだり、瞑想したりすることで、私たちが「神の域」に達するようになることを「救い」と呼んでいると思うのですが、キリスト教では逆なんですね。私たちは神の域に達する必要がない。なぜなら神が人となられたからです。イエスが人となって、私たちの間に住まわれたのです。イエスの十字架の死と復活は、もちろん私たちに永遠のいのちを与えるためのものでしたが、イエスが人となって私たちの間に住まわれたという事実は、タロウさんがおっしゃっているような、「日々生きることのなかにおいての『救い』」を可能にしてくれたと、私は思います。こんな神が、他の宗教の中にあるでしょうか?

 タロウさんが引用してくださった神父さんは、お名前は何とおっしゃるのでしょうか。非常に共感しました。

 それはさておき、永遠の昔から永遠の未来にわたって永遠に生きるお方、生そのものである神が、人間をご自分に似せてお造りになった、と旧約聖書は語っています。人間は生きるものとして造られ、生きてこそ人間なのです。生きているからこそ、食べたり飲んだり、仕事をしたり、遊んだり、寝たりします。うれしいこともあれば、いやなこと、つらいこともあります。天にも昇るような幸せなときもあれば、死んでしまいたくなるような苦しいときもあります。すべてこれ、生きているからこそ味わう事柄です。これら一つ一つが生命を生きていることであり、一つ一つが信仰生活であり、一つ一つが人生である、それが生命のきらめきなのでしょうね。


 まったく同感です! 復活後のイエスが漁をしていたペテロのもとに現れた時のことを覚えていらっしゃるでしょうか。イエスがペテロに向かって、「わたしの羊を飼いなさい」と3度語りかける場面なのですが、この重要なやりとりをする前に、イエスはまず、火を起こし、魚を焼き、ペテロたちに朝食をとるよう言われました。私はこれはとても示唆深く、大切なことだと思うのです。主は私たちの霊的な部分だけでなく、肉的なニーズにも触れてくださるお方、永遠のいのちだけでなく、「今日のいのち」も大切にしてくださるお方であるのがわかるからです。

 イエスは、私たちの永遠のいのちと救いのために十字架にかかって死なれ蘇られましたが、同時に、この地上での「今日の」私たちの生活にも関心を示し、深く関わってくださるお方ですよね。霊的、観念的なことだけが信仰なのでなく、日々の生活の営みそのものが信仰の現れであり、そこにイエスのいのちが流れ込み、表出されるのではないでしょうか。永遠のいのちのためだけでなく、「今日の」いのちのためにも、私にはイエスが必要なのです。

人々が求めているのは教師でも、指導者でもない。共に生き、ともに人生を分かち合う仲間なのではないでしょうか。福音は語ることよりも生きるものです。もちろん、語ることを否定するものではありませんが、生きてこそ福音は福音となります。そして、生きてこそ言葉は生命を持つのです。


 これも大いに共感します。 聖書には、「共同体(コミュニティー)」つまり、「共に生き、ともに人生を分かち合う仲間」の大切さが繰り返し説かれています。イエスこそ「共同体」の主唱者だと思うんですよ。 また、ヨハネによる福音書の第一章に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。この「ことば」とは、イエスを指しています。イエスこそ、生きた言葉なんです。 

 タロウさんが分かち合ってくださったこと、「キリスト教の教義からは大きく外れている」どころか、私の中ではキリストの教えの根幹の一部ですよ! でも、私は神学者ではないのでわからないのですが、上沼先生の指摘などを読む限り、これはキリスト教の歴史の中で「救い」の教義から一歩後ろに下がってしまったことなのかもしれません。タロウさんが求めるものを教会の中に今ひとつ見つけられないと感じられたのだとしたら、そのせいかもしれませんね。タロウさんが求めているものは、求めてしかるべきものだと思います。どうぞこのまま、求め続けていてください。イエスさまこそ、それをタロウさんに与えることのできるお方だと確信します。(^^)

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