ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

「水が蒸発した」/アウグスティヌス

 今日、学校から帰ってきたケンの第一声が、「水が蒸発したよ!」だった。
 「はぁ? どこの水が蒸発したの?」と聞くと、「地面の水だよ。今朝はすごくいいお天気で目が痛いほどだったのに、今はこんなに曇ってるでしょ。太陽の熱で地面の水が蒸発して、雲になったんだよ!」 ほほーう。そんなことをケンなりに考えながら、学校から帰って来たのか。これまでに聞いていた「雨が降る仕組み」と、自分が今日実際に観察したことをもとに、このような結論を導き出したようだ。夕方になって雨が降り出すと、「ほらね、これがサイクルなんだよ」としたり顔。もっとも、仕事から帰ってきたパパに、「まぁね、雲になる水分は、主に海の水が蒸発したものなんだけどね」とさりげなく突っ込まれていたが。
 ケンの中に芽生えている知的好奇心・科学的探究心に、ついニンマリしてしまう。彼のこういう部分を伸ばしつつ、同時に神様が造られた自然への感動、神様への畏怖が育つよう助けてあげたい。

 4月からまた創世記を最初から読み始めているが、今回はいままでとはちょっと違った視点で読んでいる。アウグスティヌスの「われをして聞かしめ、理解せしめたまえ。いかにしてあなたは『始めに天地を造りたもうた』のかを。…(中略)…モーゼもまた、あなたにみたされて真実を語ることができました。どうぞわが罪を許したまえ。あなたは、あなたのしもべであるかの人に、そのことばを語る賜物を与えたもうのですから、私にもまた、その意味を理解する賜物を与えたまえ」という祈りを覚えつつ。私が納得できる解釈を探そうとしてではなく、主が私たちに伝えたいと思っておられることを汲み取りながら読めるように…

 アウグスティヌスといえば、『創世記注解』の第一巻18章で、こんなことを言っていた。

 また明瞭でない事柄やわれわれの眼からはきわめてかけ離れている事柄に関わる聖書の箇所に出会い、それについては、われわれの心にしみ透った健全な信仰に従っても様々な見解を取りうるような場合、われわれがせっかちにあれやこれやの見解にくみして、さらに詳細な検討の結果、その見解の誤りが明らかになった場合、われわれは聖書自体の見解のためにではなく、われわれ自身の見解のために戦って倒れることになろう。そこではわれわれは、われわれの見解が聖書の見解として通用することを望んでいるのであるが、本当はむしろ聖書に含まれた見解がわれわれのものになることを望むべきなのである。(アウグスティヌス著作集第16巻 創世記注解 34頁)

 聖書の中の解釈が難しい箇所を読むとき、このことはしっかり心に留めておくべきだなと思わされた。
 (ちなみに、続く19章では、アウグスティヌスはクリスチャンがドキッとするようなことを言っている。とても興味深いのだが、それはまた別の機会に。)

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