ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

使命感の落とし穴

 臨床心理士のふじかけ先生が、ブログに「指導者の使命感と共感性」という記事を載せておられた。

 私もちょうど、「使命感の落とし穴」のようなものについて思わされていたところだったので、ちょっとメモ。

 人が使命感に燃えていると、大きな仕事ができるものだ。キリスト者も、神様から召命が与えられ、それに必要な賜物や機会が与えられるとき、神さまの力によって大きな働きができるのだと思う。けれども、キリスト者の場合、常に意識の中においておくべきなのは、自分はキリストの身体の一部であって、身体の他の部分と協調して働くように召されているということではないだろうか。

 旧約聖書では確かに、一人の人が選ばれて、高いストレスの中で働きをする場面がたくさん出てくる。しかし新約聖書では、教会・コミュニティー単位という、「互いに」の関わりの中で働くことが強調されているように思う。「互いに」の関わりの中で働くことの素晴らしさは、助け合い、励まし合い、祈り合えるだけでなく、補い合い、教え合い、戒め合い、説明責任を負い合うこともできること。神様は、新約聖書の教会(エクレシア)を、「互いに」「共に」の関係にある人々として召し出されたとも言えるのではないか。キリスト者にとっての使命感も、そういうパースペクティブの中で受け止めることが大切な気がする。

 日本のどこかの会社に「俺がやらねば誰がやる」という標語が掲げてあったのに、「誰が」の「が」の点々を消して、「俺がやらねば誰かやる」になっていた、という笑い話がある。「俺がやらねば誰がやる」という使命感は、日本人の美徳なのかもしれない。実際、教会の中でも、そういう心構えで奉仕にあたろう、と奨励されることも少なくないかもしれない。
 でも、「俺がやらねば誰がやる」という使命感が嵩じると、自分の境界線を越えて、限界以上、能力以上、自分にまかされている役割以上のことをしたい、しなくては、という思い(時には強迫観念)に駆られてしまう落とし穴が出てくるのではないだろうか。使命感に燃えているうちは、気持ちの上では高揚してかなり頑張れるかもしれないが、いずれは身体も精神も疲れてくる。ストレスが生じる。と同時に、心の片隅に、「自分はこれだけやっている」「他の人がやっていないことをやっている」という奢りも出て、さらには心理学でいう"Sense of entitlement" (特権意識)も出てくるかもしれない。つまり、「自分はこれだけやっているのだから、これくらい許されるだろう」と、本来なら踏み込まないはずの領域にも、ストレス解消のために安易に入っていきかねないということ。
 人間とは、一人で頑張ってしまうなら、見た目の偉大な働きとは裏腹に、さまざまな誘惑やストレスに対して脆弱なのかもしれない。そんな私たちの弱さをご存知で、コミュニティーに召してくださった主に、感謝。

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