ミルトスの木かげで

旧はちことぼぼるの日記

God Bless you!!

まことのいのちを得るために…
……so that they may TAKE HOLD OF THE LIFE THAT IS TRULY LIFE.
(第一テモテ6章18節 写真はミルトスの花)

Mystical and Practical(その1)

 先日のリーダーシップセミナーで学んだことの中に、「成長の四つの段階」があると書いた。その四つの段階とは、以下の通り。

  1. 信仰を持っていない
  2. 「クリスチャンはこうあるべき」といった形式的・律法的なものによって支えられている信仰
  3. 荒野・壁
  4. 「ルール」よりも「関係」によって動機づけられ、内側にキリストのいのちが形作られることによって支えられる信仰。

 これは、ヘンリー・クラウド博士が、何かの講演会の中で話しておられたことらしい。(本には書いていないと思う、と講師は言っていた。)各4段階を、英語でいうと、(1) Non-Faith, (2) Institutional Faith, (3) Desert, (4) Mystical and Practical となる。2番目のInstitutionalとは、「制度化された」とか「原則的な」というような意味で、信仰生活がルールや体系の中におさまっている様子を示す。これはわかるのだけれど、ん?と思ったのが4番めのMystical and Practical。説明を聞けば、要するに上に書いた通りなのだが、Mystical and Practicalと言われ、これは一体どういうことなのだろうと頭をひねった。Mysticalとは、「超自然的な」とか「不可思議な」「神秘的な」というような意味。Practicalは「実際的」「現実的」ということ。つまり、普通に考えれば、Mystical とPracticalとは、必ずしも合致する概念ではないように思える。それなのに、クラウド博士はなぜ、より成熟した段階の信仰を「Mystical and Practical」と呼んだのだろう…?
 いや、決して、皆目見当もつかないわけでない。むしろ、心の奥では、「そうだよね」とうなずいている自分がいる。
 型通りではなく、規則や体系によっていつも白黒はっきりつけられるわけではない、「不思議」というお名前(士師13:18)が指し示すその通りに、主との歩みは不思議に満ちていて、しかし机上の空論のような実態のないきれいごとではなく、むしろ日々の生々しい生活に根ざし、現実の私たちの助けになっている… そんな、信仰…
 そんなことに思いを巡らせていたら、今週初めに上沼先生の「神学モノローグ」が送信されてきた。今回は、「超えているもの」というタイトル。その中で先生は、このように書いておられた。(全文はこちらで。)

(前略)
 先週の記事で近世の思想の骨子であり、集大成である啓蒙思想のことを書いた。理性の自律で自然のメカニズムを解明して、それを生活に用いていく精神である。…(中略)…
 しかしこの啓蒙思想が聖書に向けられているときに、自由主義神学でなく福音主義の聖書信仰に対しても、理性の自律が万能の力を発している。釈義を通して聖書の原則を見いだし、その筋道を見極め、体系づけていくことで神学を形成していく。知的了解のなかで聖書が明確化されていく。神論として神の本質と属性を説いていく。あたかもそれが聖書の神であるかのように理解していく。聖書の神が、神学の概念と体系のなかに押さえ込まれていく。聖書をよりよく理解できたと思い、思い込ませていく。
 聖書が教えるクリスチャン生活、聖書が教える教会生活、聖書が教える礼拝、聖書が教える自然科学、聖書が教える生命倫理、と言うかたちでマニュアル化を可能にしていく。このようにしたらクリスチャンとして大丈夫だと教え、このようにしたら苦しみから解放されると教え、このようにしたら問題が解決すると教える。
 そのように回答が与えられ、解決が与えられたと思う聖書の教えと信仰生活だけでは捉えきれない課題を抱えてきている。そのように声を大きくしてきた教会や神学校でどうにもならない問題を抱えてきている。体系のなかに押さえ込もうとしてきたことが、どこかでほころびが出て来てしまっている
 聖書の神が、人間による概念化、体系化、マニュアル化を拒否している。神の創造による被造物が、人間による概念化、体系化、マニュアル化をはみ出してきている。信仰生活で出会うことで、人間による概念化、体系化、マニュアル化では説明できないことが多くなってきている。概念化、体系化、マニュアル化は、本来人間を超えているものを人間の中に閉じこめようとする力である。いまその超えているものがそんな力を打ち破って本来の姿を現してきている。
(後略)


 理性の自律の範囲内で、体系化された神学が形成され、それがマニュアル化した信仰生活を生んでいる… これは、上記の4段階のうち、まさに2番目の段階に対応していないだろうか。そして、結果としてそのような体系化・マニュアル化した信仰では対処しきれない問題が出てきている、というのは、三番目の「荒野・壁」に、さらに、体系化・マニュアル化ではとらえきれないもの、「超えているもの」の現れというのが、4番目の段階に対応しているのではないか… そんなことを思わされた。


 まだまだ思いめぐらせている最中。主に尋ねている最中。だから何?と言われれば、これ以上はなんとも説明しにくい。ただ、ここ数年の歩みの中で、「超えているもの」を何度となく垣間見て、体験している気がする。それはたとえば、「どうすることもできない自分」であったり、「どうすることもできない自分」の理解や予想を超えて、なおも私をとらえ、私に触れてくださる聖書の神であったり… 私を覆っていた殻にはようやく亀裂がはいったばかりかもしれない。ただ主にだけ導かれることを、切に願う。

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